今回は豊臣家の命運を握っていた淀殿という一人の女性についてです。
淀殿と言えば日本三大悪女として知っている方もいるのではないでしょうか。
しかし、淀殿はなぜ悪女として日本に認知されたのでしょう。
淀殿は徳川家が最も恐れた豊臣家の人間であったため、後の支配者である徳川家によってそのイメージをつけられてしまったのかもしれません。
淀殿は豊臣秀吉の息子を唯一産んだ母親として有名ですが、その道のりは平坦ではなかったように思います(実際には秀吉の長浜時代に幼少で亡くなった男児ががいるようです)。
豊臣家の跡取りである豊臣秀頼の母親だった淀殿とはいったいどのような人生を送ったのでしょうか。
今回は浅井三姉妹の長女でもある淀殿についてみていきましょう。
ちなみに、上図は茶々のおじいちゃん織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
淀殿は1569年頃、北近江の戦国大名である浅井長政と織田信長の妹であるお市の方の長女として産まれます。
淀殿が産まれた頃、浅井家と織田家は婚姻により良好な関係を築いていました。
しかし1570年、織田信長が朝倉義景を攻め始めると浅井長政は信長を裏切ります。
浅井長政は信長を裏切りましたが、確かな勝算は無く次第に劣勢に立たされます。
そして3年後の1573年浅井長政は居城である小谷城を包囲されます。
浅井長政は織田信長の再三にわたる降伏を無視し自害します。
妻であったお市の方は浅井長政の説得もあり、生き延びる道を選びました。
この時淀殿はまだ5歳ほどだったと言われています。
淀殿はすでに物心がついていた可能性がありました。
自分の家を焼かれ、幼くして父親の死を体験した淀殿は、どのような気持ちで落ち延びたのでしょうか。
この時の体験が今後の淀殿の人生における考え方を決定したと私は思っています。
母親と落ち延びた淀殿は叔父である織田信長の庇護の元で成長していきます。
叔父の元で平穏な日々を送っていましたが1582年、本能寺の変で信長は死んでしまいます。
この混乱する状況の中、お市の方は織田家の筆頭家臣である柴田勝家に嫁ぎなおします。
ところが、信長の死後、急速に発言力を増していた豊臣秀吉と義理の父親である柴田勝家が対立してしまうのです。
そして、圧倒的な大軍の前に柴田勝家は居城である北ノ庄城を包囲されます。
淀殿は若くして二度目の落城を経験することになってしまったのです。
柴田勝家は自害し、母親であるお市の方も耐え切れず自害してしまいます。
父、母を相次いで失ってまった淀殿は、2人の妹たちと共に固い絆をもって生きていく事になるんです。
母の死後従兄弟である信長の次男の織田信雄が、淀殿をはじめ浅井三姉妹の面倒をみたと伝えられています。
また不憫である淀殿を見かねて、お市の方の妹であるお犬の方が淀殿の世話をしたと言われています。
お犬の方は夫を亡くし実家に戻っていたようで、淀殿の気持ちに寄り添っていいたんだと思われます(しかし、お犬の方は1582年に亡くなっているようなので浅井長政の死後の話かもしれない)。
その後は叔父である織田長益の庇護を受けて生活していたと言われています。
そして時は少し流れ、母であるお市の方が亡くなってから5年後の1588年頃、秀吉に見初められて側室になったと言われています。
豊臣秀吉は元々お市の方の事を好いていたようで、その面影のある淀殿に惹かれたのかもしれません。
1589年、淀殿は豊臣秀吉の子である鶴松を産みます。
しかしその2年後、鶴松は看病の甲斐なく亡くなってしまいます。
強い落胆に襲われた秀吉でしたが、淀殿は1593年次男である豊臣秀頼を産みます。
秀吉は喜びのあまり淀殿を秀頼の後見人とし、政治に介入させてしまったそうです。
後の徳川幕府大奥の御台所といった感じでしょうか。
権力者の生母は、息子の権威と共に絶対的な権力を持ってしまうようです。
ちなみに秀吉は十数人の側室が居たと言われています。
その中で秀吉の子を産んだのは淀殿と長浜時代に幼少に亡くなった子を産んだ側室ぐらいです。
この事から秀吉に生殖能力の問題があった可能性があります。
淀殿には幼少期から親しい人物が居ました。
淀殿の乳母である大蔵卿局の息子の大野治長です。
もしかしたら、豊臣秀頼は大野治長の息子であったのかもしれません。
そんな疑惑をよそに豊臣秀吉は1598年死去してしまい、再び乱世が訪れることになるのです。
1600年、秀吉亡き後の国のかじ取りをめぐって徳川家康と石田三成が対立します。
この時、名目上は豊臣秀頼が天下人であり東軍、西軍共に秀頼の代理戦争ということになっていました。
淀殿は天下の実権を握っていながら、ひたすら日和見を始めます。
もしここでどちらかに付き号令すれば、敵対者は反逆罪になる可能性もありました。
しかし、淀殿は全く動こうとしませんでした。
例え日和見をしても、豊臣家が安泰だと思っていたのでしょう。
非常に浅はかな考えだと私は思います。
秀吉亡き後豊臣家以外で最も大きな大名は徳川家で、徳川家を弱体化しなければ豊臣家は安泰にならないことは誰の目からも明白だと思います。
案の定、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した後、天下人でありながら豊臣家は支配地を減らすことになってしまいました。
それでも豊臣家が天下人であると信じている淀殿に愕然とするニュースが届きます。
1603年、徳川家康は豊臣家に何も告げずに征夷大将軍になり江戸に新たな幕府を作ってしまったのです。
この事実を知った淀殿はようやく自分の過ちに気づき、徳川家康と対立し始めます。
その後あからさまに豊臣家への攻勢を強める家康は秀頼に上洛を命じます。
しかしこの要求に淀殿は怒り狂い、もし強要するなら秀頼を殺して自分は自害するとまで言ったようです。
1611年、この状況に危機感を感じた豊臣方の加藤清正などは淀殿を説得し、豊臣秀頼と徳川家康を京都にある二条城で会見させます(二条城会見)。
そこで秀頼を見た徳川家康は秀頼の成長ぶりに危機感を感じたと言われています。
そして3年後の1614年、徳川家康は豊臣家へ言いがかりをつけ豊臣家を滅ぼしにかかるのです(大阪の陣)。
ここでも淀殿は大阪城に集まった牢人たちを毛嫌いし、軍議などでいいがかりをつけ邪魔をしたと言われています。
また大阪冬の陣では、豊臣方の真田幸村の奮戦によって豊臣方が有利であるタイミングにも関わらず家康の砲撃に慌てて和睦してしまうのです。
この和睦で徳川方は大阪城の堀を埋め、豊臣方の勝機を奪ってしまうことになるんです。
まさに豊臣家を滅亡させるために振る舞っているかのようでした。
悪女と言われる所以ですね。
数々の失態を繰り返す淀殿ですが、極めつけは大阪夏の陣での秀頼公の出陣拒否です。
戦では大将が戦場に出ると出ないとでは兵の指揮が全く異なります。
それを知っている各武将は秀頼に出陣の要請を出します。
しかし淀殿は一切受け付けず豊臣方は戦意を喪失し、秀頼は大阪城で自刃して豊臣家は滅亡したと言われています。
淀殿も秀頼とともに自刃し生涯を閉じました。
享年47。
いかがでしたか
ここまでみていただければ淀殿が日本三大悪女である理由がわかるかと思います。
失態に失態を繰り返し、全く行動を顧みないわがままな女性というイメージを持たれても仕方ありません。
一つだけ擁護することがあるとすれば、淀殿の生い立ちの不憫さです。
幼いころに自分の家を何度も焼かれた淀殿は、自分の家を守るために彼女なりに必死だったのかもしれません。
しかし、他人を巻き込んで迷惑をかけすぎです。
個人的には必死に頑張る人間を邪魔しないでいただきたいかなと・・・。
今回は豊臣家の命運を握っていた淀殿についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~