今回は兄である安田顕元の後を継ぎ、上杉景勝の側近にもなった安田能元についてみていきたいと思います。
安田顕元という人物については、大阪の陣の話や上杉家の内情に詳しい方は知っているかと思います。
戦国時代末期の上杉家にあって有力者の一人となった人物です。
安田能元はとある戦で片足に重傷を負い、「跛上総」と言われ恐れられたと伝わっています。
今回は上杉家において名を馳せた有力武将安田能元についてみていきましょう。
ちなみに、上図はマニアックな武将で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
安田能元は1557年、安田景元の子で安田顕元の弟として越後国安田城で生まれたと言われています。
安田氏は毛利氏の庶流で元は毛利氏から分家となった家柄です。
北条高広で有名な北条家とは同族となる間柄で、かの有名な毛利元就とも同族となる家柄です。
つまり、庶流といっても名門の家柄ということになります。
ちなみに、同じ上杉家臣の安田長秀を初めとする大見安田氏とは別氏族にあたり、安田能元の安田氏は毛利安田氏と呼ぶこともあるようです。
安田能元は安田家の男子として、幼少の頃から上杉謙信の小姓として仕えていたと言われています。
そして1578年、安田家にとって大事件となる出来事が起こってしまいます。
上杉家の絶対的な存在であった上杉謙信が急死したのです。
謙信は生前に家督の継承を明言していなかったため、養子となっていた上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが起こってしまったのです。
この内乱は御館の乱と呼ばれ、安田能元は兄である安田顕元と共に上杉景勝に味方します。
この乱は安田顕元の大活躍により上杉景勝が勝利し、戦後の論功行賞が行われました。
安田顕元は、この戦で上杉景虎側だった新発田重家などの揚北衆(越後北部の国衆)を味方に引き入れ、戦後に彼らの功に報いることを上杉景勝に約束させていました。
しかし、上杉景勝は直臣である上田衆に恩賞を独占させ、安田顕元は新発田重家などとの仲裁に奔走します。
そして、上杉景勝はその後も安田能元の申し出を却下したため、安田能元は責任を感じて遂に自害してしまったのです。
この兄の死によって、安田能元は突如として家督を相続することになってしまったのです。
安田能元は兄である安田顕元が亡くなると、1580年9月25日に本領を安堵され、さらに上杉景虎を自刃に追い込んだ武将である堀江宗親の旧領も与えられています。
安田顕元の義の心を上杉景勝も無視することが出来なかったのでしょう。
1581年、新発田重家は安田顕元の自刃により上杉景勝を見限り、遂に謀反を起こします。
安田能元はこの乱に際し、上杉景勝方として新発田重家の乱の鎮圧に参加しています。
思うところはあったと思いますが、長い物に巻かれた形になったのかもしれません。
1583年、上杉景勝は新発田重家に大規模に攻勢を仕掛けます。
しかし、上杉軍は士気の低下もあり攻めきれず、撤収を始めます。
この辺りの地形を知り抜いていた新発田重家は、雨が降る中上杉軍に追撃をかけます。
そして、上杉軍はこの戦いにおいて狭い地形に追い詰められ、大敗北を喫してしまうのです。
この時、安田能元は殿を務めて重傷を負ってしまいます。
この傷が終生残ってしまう片足を負傷でした。
足に障害を負ったこの時から、安田能元は「跛上総」と言われるようになったのです。
跛とは足の障害で正常に歩行できない場合に使われる言葉です。
安田能元はその器量を認められ、そのような渾名が付いたのかもしれません。
1586年、上杉景勝は豊臣秀吉に臣従します。
安田能元は内政手腕にも優れていたため、上杉景勝が上方に出向いている間の領国管理を任せられるようになったようです。
1592年に朝鮮への出兵である文禄の役が起こると、新発田重家の乱に際して功を上げ出世街道を走る藤田信吉と共に、越後の春日山城の留守居役を務めたと言われています。
1598年、上杉家が徳川家の抑えとして会津120万石へ国替えになると、浅香城と二本松城の守備を命じられています。
この頃の安田能元の知行高は11000石ほどと言われ、小大名並みの知行となっていました。
更に安田能元は岩井信能、大石綱元と共に会津三奉行に任ぜられ、その筆頭として政務を取り仕切る立場であったと思われます。
そして1598年9月、豊富秀吉が亡くなると徳川家康と上杉家の間で不穏な空気が漂い始めます。
上杉景勝は徳川家康との決戦を見越して、安田能元に神指城の築城、道橋の普請、浪人の召抱え、武具の整備などを命じています。
ちなみにこの頃、上杉氏に仕官した前田利益(前田慶次)と親交を結んでいます。
そしてこの上杉家と徳川家康の争いが、天下を分ける大戦に繋がっていくこととなるのです。
1600年、安田能元は徳川家康率いる東軍に備えるために、小峰城を守備を命じられ、一番隊を率いることになっていました。
しかし、東軍は反転し関ヶ原の戦いにおいて石田三成が率いる西軍を破ってしまったため、上杉家は徳川家康と戦わずして窮地に陥ります。
1601年、上杉家は戦後処理に忙殺し所領の没収は免れましたが、出羽国米沢30万石に減封されてしまいます。
安田能元はこの減封に伴い浅香城、二本松城を退去します。
米沢移封後、安田能元は再び内政手腕を発揮して城下町の整備や町割りなどを行っています。
また、1612年には直江兼続、水原親憲、岩井信能、山岸尚家、平林正恒と共に十七箇条の家中法度を制定したと言われています。
このように安田能元は上杉景勝期における重鎮として活躍していったのです。
そして1614年、徳川家が豊臣家を滅亡させるべく大坂の陣が勃発します。
安田能元は大阪冬の陣に出陣します。
当初、安田能元は第一陣に布陣する予定でしたが、「第二陣に、第一陣よりもより強い大将を布陣させるべき」という上杉景勝の計らいにより第二陣に下げられてしまいました。
これは、第一陣に布陣された若い須田長義に名誉を与える目的がありました。
須田長義は須田満親の子で、上杉景勝は旧信濃衆の筆頭家臣である須田氏に再びチャンスを与えたかったと推測されます。
更に第二陣となった安田能元を憤慨させて各自士気を高めること、激戦に備えて熟練の安田能元の部隊を温存させておく意味合いもありました。
この時、第二陣には鉄砲隊として武勇の誉れ高い水原親憲が加えられていました。
大阪冬の陣における鴫野の戦いにおいて、当初は上杉勢が優勢に戦いをすすめていました。
しかし、後詰めとして大野治房が12000の兵で出撃してくると状況は一変します。
上杉勢の第一陣はに徐々に押され始め、須田長義は突き崩されてしまったのです。
そこで、控えていた水原親憲が大声を上げて鉄砲隊を出撃させ、大野治長の隊が戸惑っている間に安田能元は500の兵で大野隊に突撃します。
この第二陣の働きによって見事に敵軍を撃退し、撤退させることに成功したのです。
この合戦の後、戦功のあった武将達は次々に徳川家康・秀忠父子から冠状や褒美を与えられましたが、安田能元は何も与えられませんでした。
これは、安田能元と直江兼続の関係悪化が原因だと言われています。
この関係悪化は関ヶ原の戦い以降だと言われ、安田能元は直江兼続の行動などに疑問を持っていたのかもしれません。
直江兼続は関ヶ原の戦い当時徳川家康に徹底抗戦を主張しながら、戦後は新たな権力者になった徳川家康にすり寄っていたのです。
このことに対して安田能元は、「感状を賜らなかったからといって、そのことを決して不名誉とは思わない。それに自分は殿(上杉景勝)のために戦ったのであって、大御所様(徳川家康)や将軍様(徳川秀忠)のために戦ったのではない」と言い放ったと伝えられています。
関ヶ原の戦いで上杉家を徳川家との戦いに導いておきながら、大坂の陣で徳川秀忠から感状を貰って喜んでいる直江兼続に皮肉を込めているのです。
この発言を聞いた直江兼続は何も答えることができなかったと言われています。
そして1622年、安田能元は亡くなります。
享年66。
いかがでしたか。
安田能元は内政、軍事ともに優れた万能型の家臣であったということがわかっていただけたかと思います。
武勇に秀でた父安田景元、外交内政に長けた兄安田顕元からあらゆる面を受け継いだ傑物が安田能元という人物だったのです。
足に障害を持ちながらあらゆる面で大活躍できる人物はなかなか居ないと思います。
足に障害がある武田信玄の軍師山本勘助は、知略は優れていたことは確かですが武勇に秀でていたとは考えにくいです。
今回は毛利安田氏の集大成と言える人物安田能元についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~