• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・



 今回は北条高広のライバルであり、安田家の礎を築いた安田景元についてみていきたいと思います。

 
安田景元と言われてもほとんど人が存在すら知らないかと思います。


しかし、戦国時代をある程度知っている方なら北条高広という人物については知っているのではないでしょうか。


北条高広は、謙信に二度も背きながら認められた気骨ある人物と言われています。


安田景元はその北条高広のライバルであり、上杉家を支えた安田顕元安田能元の父親でもある人物です。


今回は安田家の礎を築き、上杉家で重きをなした安田景元についてみていきましょう。



ちなみに、上図はマニアックな武将で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~

安田景元の出自について・・・



 安田景元は北条氏と安田氏の当主を兼任した北条広春(安田広春)の養子となった人物です。


安田景元の出自については不明な点が多いようで、北条広春の父である安田清広の庶子であったとする説もあるようです。


安田氏は、源頼朝に仕えた大江広元の末裔と言われている北条氏の一族が、越後国刈羽郡鵜川庄安田条を領して安田氏を名乗ったのが最初だと言われています。


大江広元は毛利元就で有名な毛利氏の祖となった人物です。


つまり、安田景元は毛利元就と同じ一族ということになります。


ここで急に話は閉じますが、安田景元の話に入る前に安田氏の当主でもあった養父・北条広春について前置きをしておきたいと思います。




北条氏と安田氏の当主を兼任した北条広春は、上杉謙信の父である長尾為景に仕えます。


北条広春は長尾家で奉行職として政務を行っており、常に守護代である長尾氏の側近くで仕えていたようです。


北条広春は1520年の越中平定にも参戦し、長尾為景の側近として重きをなしていったのです。


しかし、広春は生涯子宝には恵まれず、1530年頃子を残さず亡くなりました。


そこで養子となっていた二人の息子が登場します。


この広春の後を北条家として継いだのが北条高広で、安田家として継いだのが安田景元だったのです。

長尾為景方の代表として忠義を尽くす!!

 

 北条広春が亡くなった頃、越後の国人領主たちにとって越中出兵などの軍役は大きな負担であり、次第に国人たちの長尾為景に対する不満が高まっていました。


これを好機ととらえた越後守護上杉定実の一族である上条定憲は、1530年長尾為景打倒の兵を挙げたのです。


この乱は上条の乱と言われ、安田景元は他の越後諸将と連盟して長尾為景に対抗しました。


しかし、程なくして長尾為景と和睦をしたようで、逆に上条定憲の居城である上条城を攻めたと言われています。


1533年、長尾為景は安田景元に北条輔広と相談をして上条城に備えるように命じています。


ちなみに北条輔広は北条家の先々代の当主であり、一応安田景元の祖父にあたる人物です。




ところで、安田景元はその出自に関しては不明な部分が多い武将と言われています。


安田景元は1515年に越後に潜行し、安田城を奪い取って同城に居すわり長尾為景から安田毛利氏の家督を安堵されたとも言われています。


安田景元の家督相続は傍流の人物が強引に奪い取ったような印象があります。


そこで、北条広春の娘を娶って安田城には入らず、北条城にしばらく住んでいたようです。


安田景元は毛利安田氏における下剋上を行った人物であったと考えられていて、傍流であったためしばらくは安田城で自立することが出来なかったと思われます。


このため、北条城主であった北条輔広を後楯として行動する必要があったと考えられています。


 

話を戻します。


1533年、安田景元は長尾為景の要請に従い、満を持して上条勢と戦います。


この時、長尾為景から感謝の手紙を与えられています。


そしてその翌年、ようやく安田城に移り安田城主として行動を開始しています。


この乱は引き続き収まる様子はなく、安田景元は北条勢と連携をしながら長尾為景方として戦いを続けます。


長尾為景にとって最も信頼する武将の一人となっていったのです。




1534年5月、上条方は為景方の諸城の攻撃を開始してきます。


上条定憲、宇佐美定満、長尾房景らが同族の北条家の居城である北条城に攻め寄せたのです。


安田景元は北条城の北条輔広、北条高広とともに上条勢と激しい攻防戦を展開し、為景はこの奮戦に対して激励の書状を送っています。


その後も安田景元は為景に加担して獅子奮迅の活躍をみせたようです。


安田景元は同族の北条氏、信濃の高梨氏らと協力して、しばしば上条勢を破る戦功を上げ為景から感状を与えられています。


しかし1535年以降、長尾為景は窮地に陥ってしまいます。


そのため、長尾為景は家督を息子である長尾晴景に譲って事態の収拾に努めたのです。




上条の乱の最初は為景に抵抗した安田景元でしたが、それ以後一貫して為景方として活躍しています。


安田景元は同じく下克上の典型でもある長尾為景に親近感を持っていたのかもしれませんね。

ライバルである北条高広を差し出す!

 

 長尾為景の後をついで新国主となった長尾晴景は、生来の病弱であり戦乱の越後を治める力量に欠けていました。


父である長尾為景ほどの求心力は無かったのです。


越後の戦乱が続く中、長尾晴景に代わって内乱を次々と鎮圧していった一人の武将がいました。


この武将こそ後の上杉謙信となる長尾景虎でした。


1548年、守護である上杉定実の調停によって長尾晴景が上杉謙信に家督を譲り、謙信を新たな当主とした政権が誕生したのです。


安田景元もこの謙信の家督相続を支援したと言われています。




そして1555年、同族であった北条高広武田信玄に応じて長尾景虎に謀反を起こす事件が起きてしまいます。


北条高広の謀反を察知した安田景元は、ただちに謙信の側近である直江景綱にこの事を知らせたのです。


安田景元の報に接した謙信は景元の行動に感動し賞賛したと言われています。


謙信はこの報を聞くと柿崎景家宇佐美定満らに北条城の動きを警戒させ、みずから兵を率いて出陣します。


この攻撃に対し北条高広は必死に防戦しましたが、翌年降伏し再び謙信の軍門に降ることとなりました。


下克上を果たした安田景元は野心が強く、更なる領地獲得のためにライバルである北条高広を差し出したのだと思われます。

 


1559年、二度目の上洛を果たした謙信その壮挙を祝って諸将が太刀を献上しました。


安田景元はこの上洛に際し金覆輪の太刀を献上しています。


この時、景元の子の安田顕元は謙信から「顕」の一字与えられて、これ以降顕元を名乗ったと言われています。


1561年に起きたかの有名な川中島の戦いでは、安田顕元が謙信の軍役を担っており、この時には家督を譲り隠退していたと考えられています。




そして1563年頃、安田景元は死去したと言われています。

まとめ



 いかがでしたか


安田景元は安田家の礎を築いた重要人物で、忠義に厚い野心家だったのではないでしょうか。


上条の乱に関しては劣勢である長尾為景に味方をして大活躍していますし、北条高広の謀反に際してもいち早く報告しています。


このように忠義にも厚い人物であったからこそ上杉家でも重宝されたのではないでしょうか。




今回は忠義に厚い野心家で安田家の礎を築いた安田景元についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


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