今回は御館の乱での恩賞問題の責任を取り自害した安田顕元についてみていきたいと思います。
安田顕元と言われると上杉景勝と新発田重家の仲裁に奔走し、願いかなわず自害した武将として知っている方も多いと思います。
安田顕元は戦国の世にあって、非常に律儀で責任感の強い武将でです。
この人物について知れば知るほど、彼を好きになってしまう方も多いと思います。
今回は律儀で責任感の強く「義」に生きた武将安田顕元についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
安田顕元は毛利氏庶流安田氏の当主である安田景元の息子として誕生します。
安田顕元の生年についてはわかっていませんが、1560年頃までには家督を継いでいることを考えると1530年頃には誕生していたのではないかと思われます。
安田顕元の家柄の安田氏は毛利氏庶流安田氏ということになっています。
この安田家は元は毛利氏から分家となった家柄です。
つまり、安田氏はかの有名な毛利元就と同族となる家柄です。
父である安田景元は安田家の中でも庶流であったと考えられていて、安田家を半ば下克上のような形で相続した人物になります。
安田景元は更に上杉謙信の父親である長尾為景からの信頼も厚く、謙信からの信任も厚かったと言われています。
安田景元は安田氏を大きな家にした有力者でもあったわけです。
そして、安田顕元は1560年頃、安田景元の隠居に伴い家督を継いだと考えられています。
家督を継いだ安田顕元は1561年の川中島の戦いにも参戦し、その後川中島にも近い信濃国にある飯山城を任されています。
隣国である武田信玄の領国近くのこの地を任されるということは、安田顕元は謙信から「頼みとなる勇将」として見られていたことを示していると思います。
ちなみに1575年に記された上杉家の上杉軍役帳によると、安田顕元の軍役数は九十五名と記されていて、有力な家臣とみなされていたことも裏付けられています。
そして1578年、上杉謙信が急死すると安田顕元は表舞台に登場し、後を継ぐことになる上杉景勝方の有力者として大活躍することになるのです。
1578年、謙信が急死したことで養子である上杉景勝と上杉景虎との間で家督争いが起きてしまいます。
上杉景虎が居城にした御館という場所から、この内乱は「御館の乱」とよばれています。
この内乱は、家中でも意見が真っ二つに分かれて越後は大乱となってしまったのです。
安田城主であった安田顕元は弟の安田能元とともに上杉景勝派に属します。
安田顕元は「正当な血筋を引く景勝様を捨てて、北条家の血筋を引く諸人の景虎に付くとは、侍のとるべき筋目ではない」と言って、上杉景勝に誓書を差し出したと言われています。
この事を聞いた上杉景勝は涙を流しそうになるほど喜んだと伝えられています。
ちなみに、同じ毛利一族である北条高広と北条景広は、上杉景虎派に加担し安田毛利氏と北条毛利氏はそれぞれの道を歩むことになったのです。
安田顕元は、景虎派に加担していた新発田重家などの揚北衆(越後北部の国衆)を景勝方に寝返らせることに成功します。
景勝方の武将として工作に奔走したのです。
1579年3月、上杉景虎は戦に敗れ実家である北条家に逃れようと決意します。
そこで関東の通り道となる鮫ヶ尾城主の堀江宗親を頼りました。
安田顕元はその堀江宗親を調略して景勝方へ寝返らせることに成功したのです。
頼みとしていた堀江宗親の寝返りによって上杉景虎は死を悟って自害し、この内乱は上杉景勝方の勝利となったのです。
ちなみに、上杉景虎の自害の少し前、この内乱の調停を試みようとした前関東管領上杉憲政は景虎に降服を進め、その嫡子である道満丸を人質として春日山に送り届けようとしました。
しかし、上杉景勝の密命を受けた家臣によって道満丸、上杉憲政は共に斬られ亡くなってしまったのです。
上杉憲政の首はさらし首となったようですが、これを憐れんだ安田顕元は上杉憲政の遺骸を引き取って後日丁重に葬ったといわれています。
上杉謙信の「義 」を受け継いだはずの上杉景勝のこの対応は、正直極悪非道と言わざるを得ません。
降伏を名乗り出ている人間に言上もさせずに殺害してしまうなんて・・・。
恐らく安田顕元もこの対応に驚き、憲政を丁重に葬ったのだと思います。
安田顕元は上杉景虎方の武将であった新発田重家や北条家の一族である毛利秀広らに戦勝後の恩賞を約束して味方に引き入れていました。
上杉景勝もこのことを了承していて、安田顕元は戦後の論功行賞の際に「新発田重家の合戦での獅子奮迅の働きは類を見ないため、是非一城を与えてほしい」と言上したと言われています。
上杉景勝もこの発言に対して異論は無く、安田顕元の案に賛成を示します。
ところが、奉行職の山崎秀仙と直江信綱らは、一門や景勝の側近たちである上田衆の恩賞を厚くするべきとして安田顕元の意向を無視してしまったのです。
この間も上杉景勝と新発田勝家の仲裁に奔走し、上杉景勝に恩賞を出すように再三言上したようですが、受け入れられることはありませんでした。
つまり、最終的に上杉景勝本人が譜代の部将や旗本の恩賞を採用し、外様の武将を退けたのです。
その結果、あれだけ御館の乱で活躍した新発田重家の努力は無に帰し、責任を感じた安田顕元は切腹して果ててしまったのです。
この安田顕元の切腹は、周辺の国衆に与えた影響は計り知れず新発田重家に謀反を決意させたと言われています。
更に安田顕元の死後の1581年、同じく恩賞に不満を感じていた毛利秀広は行動を起こします。
河田長親の急死に伴い、その遺領について相談している山崎秀仙と直江信綱をその会談中に殺害してしまうのです。
その結果、直江氏には樋口氏から兼続が入って家名を継いで直江兼続と称しました。
かの有名な直江兼続誕生の背景にはこのような事情があったのです。
そして同年の1581年、上杉景勝と敵対関係にある織田信長は新発田重家に謀反を促し、それに応じて新発田重家は謀反を起こします。
この謀反に上杉景勝は7年もの歳月をかけることになり、上杉家は前途多難な道を進んでいく事になったのです。
いかがでしたか
私は正直、御館の乱からの一連の流れについて疑問を感じずにはいられません。
上杉景勝は決断する立場にありながら、「義」とは言い難い判断を何度も下しているように感じます。
もしかしたら、安田顕元は最終的に私と同じ感覚を持ち、未来に絶望し自害したのかもしれないですね。
結果的に上杉家は大きくなりましたが、織田信長がもう少し長く生きていれば新発田重家との挟撃により上杉景勝の命はなかったとも考えられます。
今回は義を貫いて亡くなった武将の一人である安田顕元についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~