• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 


今回は上杉謙信の軍師として描かれることが多い宇佐美定満についてお話させていただきます。


宇佐美定満というと2007年の大河ドラマの風林火山で、緒形拳さんが熱演して話題になったことを覚えている方もいると思います。


大河ドラマでは軍師として描かれ、家臣になった後は謙信にとても信頼されているイメージでした。


しかし、その実態は少し違うかもしれません。


宇佐美定満の人物像については、創作であった可能性が高い「北越軍記」からの影響を受けています。


大河ドラマの演出もこの北越軍記の内容を解釈して描かれたと考えられます。


今回は上杉謙信の謎の多い軍師、宇佐美定満について詳しくみていくこのことにしましょう。





ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~



謙信の父、長尾為景を討ち死に寸前に・・・

 宇佐美定満は1489年、越後守護上杉家の重臣である宇佐美孝忠の子として産まれます。


この時代の越後は、守護の上杉家と守護代の長尾家が幾度となく戦をしていて、分裂状態にありました。


1507年、越後守護の上杉房能は上杉謙信の父親である越後守護代の長尾為景に倒されます。


その後、長尾為景は新たな越後守護に上杉定実を擁立させていました。


つまり、越後守護になった上杉定実は長尾為景の傀儡であったわけです。


この状況に嫌気がさした上杉定実は長尾為景に反旗を翻します。


1513年上杉定実は長尾為景に対して挙兵をします。


この挙兵に呼応したのが上杉家重臣の宇佐美孝忠でした。


1514年、宇佐美孝忠は長尾為景に敗れ、越後の岩手城で敗死したそうです。


この経緯があり息子である宇佐美定満が家督を継いだと思われます。




その20年余り後、宇佐美定満は再び長尾為景に戦いを挑みます。


1530年、上杉定実の弟と言われている上条定憲は長尾為景に対して反乱を企てます。


一度はこの反乱は終息しますが、1533年再度挙兵します。


この時、越後北部の揚北衆や国外の勢力も味方につけた上条定憲は長尾為景に対して攻勢を強めることとなりました。


最初は長尾為景に従っていた宇佐美定満ですが、1535年には離反していたようです。


宇佐美定満は諸方への計略を巡らせ、多くの味方を引き入れたと言われています。


劣勢に立たされた長尾為景は1536年三分一原という地で決戦に臨みます。


この戦いは柿崎景家などの寝返りもあり長尾為景方が勝利したと言われています。


しかし、長尾為景は宇佐美定満の軍に討ち死に寸前まで追い詰めらていたと言われ長尾軍の被害も甚大だったようです。


宇佐美定満のこの武勇は他国に響き渡り、長尾家も無視できない存在になっていくのです。

宇佐美定行としての伝説

 1548年、宇佐美定満は長尾家を継いでいた長尾晴景に代わって台頭してきた長尾景虎(後の上杉謙信)に付き従います。


1549年、宇佐美定満は上杉謙信に粘り強く抵抗していた長尾政景の攻略を任されます。


しかし、宇佐美定満は長尾政景に調略や脅迫を受けていて、家臣の士気も低かったようです。


このような状況なため宇佐美定満は一時的に謙信の下を離れますが、すぐに復帰をして長尾政景と交戦しています。


この後長尾政景は降伏し、戦功のあった宇佐美定満は当然加増されるはずでした。


しかし、実際には加増は無かったようで、「家臣のやる気が低くなっている」というような内容の文が見つかっています。


これらの記述から宇佐美定満は上杉謙信へ不満を持っていたと感じ取れてしまいますね。






ここまでが宇佐美定満の確かな資料による人物像となります。


これまでの宇佐美定満の歴史をみてみると、上杉謙信の軍師として登場する記述は一つもありません。


しかし、これから説明する「北越軍記」には宇佐美定行という人物として様々な伝説が描かれています。


宇佐美定行は一般的に宇佐美定満と同一人物とされているので、混乱しないで聞いていただければと思います。


北越軍記の作者は、宇佐美定満の子孫と言われる宇佐美定祐という人物で、徳川頼宣に仕えた越後流軍学者でした。


この事から先祖である宇佐美定満を美化し、創作した疑いがありました。


更に宇佐美定祐は子孫としても疑わしい点が何点もあり、自分の創作物である「北越軍記」の正当性を持たせるために子孫と名乗ったとも言われています。


いずれにせよ、今からお話させていただく事柄は「創作の可能性もある」ということを念頭に置いて聞いていただきたいと思います。

上杉謙信の軍師として そして長尾政景を葬るために・・・

 北越軍記の宇佐美定満は、長尾為景没後の当主長尾晴景に追われ、謙信のいる栃尾城に招かれて軍師になったと言われています。


そして、謙信の兄への挙兵を決意させ、長尾晴景を敗死させ謙信は当主になったと書かれています。


1554年の川中島合戦では、謙信の窮地を救ったと言われています。




ここまでの話で既に2つ事実との違いがあります。


まず、長尾晴景の敗死についてと川中島の戦いの年についてです。


長尾晴景は1553年に病死していますし、川中島の戦いは1554年には行われていません。




1559年、宇佐美定満は無事に上洛した上杉謙信に太刀を献上し、1560年の謙信の関東出兵にも付き従ったと記されています。


1561年の川中島の戦いでは、武田信玄の軍師である山本勘助の「啄木鳥戦法」を見破ったとされています。


このように宇佐美定満についての様々な伝説が記されています。


そして1564年、既に70歳を超えていた宇佐美定満は、謙信に対する最後の奉公を行います。


かつて謙信に対して最後まで抵抗した長尾政景を葬ろうとしたのです。


宇佐美定満は長尾政景の居城である坂戸城近くの野尻池に政景を誘い、舟遊びをしていました。


そこで船の栓を抜き、自分もろとも政景を溺死させたと言われています。


享年76。


確かに長尾政景は溺死により死亡した可能性が高いと言われています。


しかし、それは宇佐美定満による謀殺では無く、単純に酒に酔っぱらって溺死したとした説や、謙信の他の家臣に忙殺されたとする説もあるようです。

まとめ

 いかがでしたか


宇佐美定満は上杉謙信の側近で、上杉四天王の一人として上杉家を語る上では欠かすことのできない存在です。


しかし、実際の宇佐美定満はどうだったのでしょうか。


北越軍記以外の資料では、「不遇な晩年を過ごした家臣」となってしまいます。


後年では上杉四天王とまで言われている宇佐美定満は創作から派生した幻想なのかもしれません。


今回は上杉四天王の一人で謙信の軍師とされてきた宇佐美定満についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


コメント一覧

返信2019年12月17日 4:30 PM

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返信2019年12月17日 5:12 PM

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