• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 

 今回は北条氏康の息子にして上杉謙信の養子である上杉景虎についてお話させていただきます。


上杉景虎というと「上杉家の家督争いで上杉景勝に敗れた武将」として知っている方も多いと思います。


確かにそうですが、少し考えてください。


上杉景虎とは北条氏康の息子で、上杉家と関係の深い血筋は一切入っていません。


北条家と上杉家は長年の敵であった家柄で、北条家の血筋を引き継いでいる人間を上杉家の養子にすること自体が変だと思いませんか。


更に家督争いなんて普通ならありえないと思います。


今回はこの不思議な巡り合わせに至る経緯やその後の上杉景虎についてみていきたいと思います。





ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~



北条氏康の息子として振り回される日々・・・

 

 上杉景虎は1554年、北条氏康の7男として産まれます。


母親は武蔵(現埼玉、東京、神奈川の一部)国の江戸城の城代を務める遠山氏の一族の遠山康光の妹とされています。


上杉景虎は幼い頃から箱根にある早雲寺に預けられ、仏門に入っていたと言われています。


この時代、国を治めるものは長男を家元に残し、それ以外の男子は仏門に入ることが一般的でした。


上杉景虎もその例外では無く仏門に入っていたと考えられています。




上杉景虎が産まれた頃、北条家では大きな転換期を迎えていました。


北条家は1554年、西側に位置する武田家、今川家と三国同盟を締結したのです。


北条家は北条氏康の先代、北条氏綱から敵対関係にある今川義元とも同盟を結び、関東の支配に乗り出そうとしていました。


この状況下において、上杉景虎は「北条方の人質として武田家に送られていた」と北条家の軍記物には記されています。


しかし1560年、上杉景虎が7歳の頃に隣国で大きな事件が起こります。


三国同盟の一角である今川家の今川義元が織田信長に討ち取られてしまったのです。


今川家の弱体化は決定的となり、三国同盟に意味がないと悟った武田信玄は今川家との同盟を破棄し攻め込む事を決意します。


この事態に北条氏康は激怒し、武田家との同盟を破棄して今川家を支援することにしました。


ちなみに、上杉景虎はこの事件の前に武田家から北条家に戻っていたと思われます。


ところが、当時の武田家は戦国最強と言われているように強すぎました。


武田信玄は徳川家康、北条氏康に攻め込まれながらも勝ち続けます。


1569年、駿河(静岡県東部)の蒲原城の戦いでは北条幻庵の2人の息子が討ち死にしてしまいます。


この事態を受けて、上杉景虎は北条幻庵の娘を娶り、北条幻庵の養子となることになりました。


その後、北条幻庵は上杉景虎に小机城(現神奈川県横浜市にあった城)を譲り、正式な跡取りとします。


また、上杉景虎は母方の実家である遠山氏(江戸城代を務める)とも関係が深かったようで、現在の神奈川、東京一帯の地域を任されます。


ちなみに遠山氏とは北条家の重臣として確立していた一族で、上杉景虎は遠山康光の妹の子と言われています。


遠山康光は遠山綱景の弟でもあるので、上杉景虎は江戸衆を率いた遠山綱景の甥ということになります。


つまり、上杉景虎は満を持して北条一門として動き始めたのです。


しかし、このすぐ後に景虎は思いもよらない状況に立たされることになります。


仏門、武田家の人質、北条幻庵の養子となってその身を転々とした上杉景虎は、更に北条家のために動かされることになっていくのです。

捨て石として・・・

 

 武田家と手切れになった北条家は周辺諸国の情勢を見極めます。


北条氏康は武田信玄に対抗するため、長年の仇敵であった上杉謙信との同盟を模索し始めます。


同盟の条件として、北条家の当主になっていた北条氏政の次男・国増丸が謙信の養子になることが決まっていました。


ちなみに上杉方の人質としては、上杉謙信の重臣柿崎景家の息子の柿崎晴家が北条家に出向くことになっていました。


しかし、北条氏政は長年の仇敵である上杉謙信に嫌悪感を抱いていたため、次男・国増丸を出すというこの申し出を断ります。


そこで、北条幻庵の養子となっていた上杉景虎を謙信の養子にする案が浮上したのです。


ようやく自分の北条一門として働き始めた矢先の出来事でした。


1570年の3月には養子の話がまとまり、謙信の姪で上杉景勝の姉である清円院を娶ることとなりました。


1570年4月、上杉景虎は上野国の沼田城で謙信と対面することとなります。


この時上杉謙信は、上杉景虎を見てすぐに気に入ったと言われています。


上杉謙信の初名である「景虎」を上杉景虎に名乗らせることにしたのです。


この待遇に上杉景虎は感銘を受けたに違いありません。


幼いころからたらいまわしにされていた上杉景虎は、初めて父親という存在を感じたのかもしれません。


更に上杉謙信の居城である春日山城の三の丸に住むことを許され、謙信の養子として歩んでいく事になるのです。


しかし、この時期の上杉家には違う話も舞い込んできていました。


15代将軍、足利義昭から「武田信玄と和睦をするように」との要請でした。


1570年、足利義昭は上洛を手伝ってくれた織田信長に嫌悪感を感じ始めていました。


そこで、最強の戦国大名である武田信玄に上洛してもらい、信長を討って欲しかったのです。


そのため、足利義昭は武田信玄が上洛できるように信玄と争っている上杉謙信との和睦を仲介しようとしたのです。


上杉謙信は足利将軍家とは親密な関係にあり、将軍の命令を無視することは出来ませんでした。


謙信はこの和睦を受け入れたことで、武田家と戦をすることが出来なくなったのです。


北条家としては武田家に対抗してもらうために援軍を見込んで同盟をしたはずが、上杉謙信は一切動くことが出来なくなっていました。


北条家は上杉家のこの態度に嫌気がさし、1571年に上杉家との同盟を破棄することになります。


北条家は武田信玄の脅威を感じて、しぶしぶ武田家とも再度同盟を結んだのです。



さて話は戻りますが、上杉景虎は北条家と上杉家の同盟の証として謙信の養子になっていたため立場がありません。


父親である北条氏康に捨て石としてされたのです。


上杉景虎は北条家に「たらいまわし」にされたことに嫌気がさしたのか、上杉謙信の愛情を感じたのか、同盟破棄後も上杉家にとどまることになったのです。


上杉家に忠誠を誓った上杉景虎は、この後悲劇的な事件に巻き込まれてしまうのです。

上杉謙信の後継者は・・・

 

 1578年、織田信長と対陣中の上杉謙信は突如亡くなります。


トイレで倒れて亡くなってしまったのです。


上杉謙信は亡くなるつもりなどは全くなく、後継者を指名せずに亡くなってしまいました。


そこで上杉謙信の二人の養子が候補に挙がります。


それは今回お話させていただいている上杉景虎と、謙信の姉の子である上杉景勝です。


上杉景勝に味方したのは後に愛の兜で有名になる直江兼続や謙信の側近、旗本などが中心でした。


一方で上杉景虎に味方したのは、前関東管領の上杉憲政や上杉家を2度裏切るも有能であったため許された北条(きたじょう)高広、更に実家の北条家や伊達家などでした。


この家督争いは、上杉景虎が本拠とした館の名前を取って御館の乱と言われています。


最初に動いたのは上杉景勝でした。


景勝は上杉家の本拠である春日山城の本丸を占拠して、謙信の莫大な遺産を接収します。


後手に回ってしまった上杉景虎は実家である北条家に救援を要請します。


しかし、当時の北条家は関東の常盤(現茨城県)の佐竹義重や下野(現栃木県)の宇都宮広綱と対陣中で援軍を送る余裕がありませんでした。


そこで同盟中であった武田家の当主武田勝頼に援軍を要請します。


更に味方についていた北条高広、高広の息子である北条景広は上野(現群馬県)から越後の入り口にあたる三国峠を越えて上杉景虎を支援しようとしていました。


このような情勢下において、大きな後ろ盾のある上杉景虎は優勢になります。


ところが、北条家にとって寝耳に水の出来事が起こります。


武田家の武田勝頼は上杉景虎を支援せず、中立の姿勢を見せたのです。


この背景にはお金と所領が絡んでいました。


春日山城の莫大な遺産を得た上杉景勝は武田勝頼を金銭で買収し、上野の沼田領も割譲すると言ってきたのです。


武田勝頼は長篠の戦い以降、求心力を失っていた事に加えて、甲斐から取れる甲州金も少なくなっていました。


武田勝頼は経済的な面だけでも有利に立ちたいと思っていたのでしょう。


1578年6月、武田家方の武田信豊跡部勝資、上杉景勝方の斎藤朝信新発田長敦らによって和睦の交渉が行われました。


この事態を受けて上杉景虎方も上杉景勝と和睦して一時停戦をします。



しかし1578年8月、徳川家康がこの隙をついて武田領内にある駿河(静岡県東部)の田中城を攻撃してきたのです。


武田勝頼はこの援軍のため僅かな兵を残して撤退してしまいました。


武田家の仲介の無くなった上杉両陣営では簡単に和睦は破綻し、再び内乱が起こってしまうのです。


1578年9月、北条家の北条氏照、北条氏邦がようやく三国峠を越えて越後にいる上杉景虎の支援に向かっていました。


しかし、上杉景勝は越後の入り口に位置する坂戸城を必死に守り続けます。


そして冬を迎えてしまうのです。


当時の越後の冬は非常に厳しく、北条家は撤退してしまいました。


武田家、北条家両家の支援を失った上杉景虎は孤立無援となってしまったのです。


翌年、更に状況は悪化し上杉景虎は窮地に陥ります。


1579年3月17日、前関東管領の上杉憲政は上杉景虎の息子である道満丸を連れて和睦の交渉に出向きます。


しかし、その道中で直江兼続の家臣に上杉憲政、道満丸は殺害されてしまいました。


直江兼続は愛を掲げながらやることがひどすぎると思ってしまう瞬間ですね・・・。


この異常事態に上杉景虎は居城の御館に火を放ち、北条家の小田原城に向かうこととなりました。


3月24日、上杉景虎の味方であった堀江宗親は劣勢であった景虎を裏切り、停泊中の景虎を自害に追い込んでしまいます。


上杉景虎は、死を悟り上杉景勝の姉である清円院とともに自害して生涯を閉じました。


享年26。



ちなみに、この武田勝頼の裏切りに北条氏政は怒り、同盟を再度破棄しています。


このことが後に武田家滅亡の大きな一因になってしまったのです。

まとめ

 

 いかがでしたか


上杉景虎は、幼いころから北条氏康の思うがままに転々させられていました。


上杉謙信は自身も仏門に入っていた経緯があったことから、上杉景虎に親近感を感じ、大切に扱ったのかもしれませんね。


上杉景虎も謙信から親としての愛情を感じ、幸福な数年間を過ごしたのかもしれません。


家督争いについては、謙信が事前に家督の継承を行っていなかったことが原因だと言わざるを得ません。


あまり計画的ではない謙信らしいといえばそこまでなのですが・・・。



今回は悲しい運命を辿ってしまった上杉景虎についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


コメント一覧

返信2019年12月17日 1:27 PM

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