• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 

 今回は上杉景虎の叔父で江戸衆を率いて活躍した遠山綱景についてみていきたいと思います。


遠山綱景は後北条家で活躍した遠山家の一族ですが、水戸黄門で有名な遠山の金さんとは同族の間柄です。


遠山綱景は江戸において江戸城代を務め、北条家の家老に列せられた人物でもあります。


冒頭でもあるように、御館の乱で亡くなった上杉景虎の叔父でもありました。


今回は北条家を語る上でキーパーソンの一人となる遠山綱景についてみていきましょう。




ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~


遠山氏について

遠山の金さんの屋敷跡

 

 遠山綱景は1513年頃、北条家の重臣である遠山直景の子として産まれます。


遠山直景は、遠山家の一族として1490年から1493年頃まで将軍職にあった足利義稙の家臣として活躍した人物になります。


遠山とは美濃、三河、信濃の南部にまたがる山中の総名称で、平安時代末期に藤原北家の利仁流の加藤氏がこの地の地頭となり、遠山を名乗ったことから始まったと言われています。


その後、遠山氏は東美濃の岩村城を本拠とし活躍したようで、美濃守護となった土岐氏の被官的な立場になったようです。


つまり、遠山直景は土岐氏の被官として中央にある足利将軍家に奉公していたということになります。


1491年頃、北条家初代となる北条早雲は申次衆を務めており、遠山直景と早雲は京都にある幕府内部で知己となったと考えられます。


そして1492年、応仁の乱以降権威の失墜していた幕府で内乱が勃発します。


この内乱に遠山直景は巻き込まれて敗走し、知己であった北条早雲を頼って伊豆に逃れてきたと思われます。


これが遠山家が北条早雲の重臣となった背景になります。


この後、遠山直景は松田氏や大道寺氏とともに後北条氏の三家老となり、重きをなしていったと言われています。




1524年、関東では扇谷上杉家と北条氏綱の争いが続いていました。


そこで、北条氏綱は扇谷上杉家に不信感を抱いている太田康資の父である太田資高を調略し、約20000の兵を率いて江戸城を攻撃したのです。


江戸城攻防戦は大激戦となりましたが、結果として北条方の勝利に終わり、敗れた上杉朝興は河越城へ逃げ込みました。


江戸城はこうして北条氏の手に落ちたのです。


そして、北条氏綱は江戸城を修築すると、遠山直景を城代として武蔵進出の最前線を担わせたのです。




ちなみに、江戸城の城代は3人配置されていて、本丸には富永直勝の父である富永政直、二の丸には遠山直景、三の丸には太田資高が入っています。


このことから、本丸の富永氏を城代の主席と見がちですが、同時代の資料によると北条家は遠山氏に重きを置いていたようです。




その後、1533年に遠山直景が亡くなると遠山綱景が家督を継ぎ、江戸城の城代としての御役目も相続することなったのです。

江戸衆結成!!



 家督を継承した遠山綱景は、父の後を継ぎ江戸城の城代の御役目をしっかりと務めていました。


しかし、江戸の周辺はまだ扇谷上杉家の残党が割拠していて、統治するには大変な領地であったようです。


1538年、このような状況の中ので北条家に大きな脅威が押し寄せます。


上総の里見、武田氏らに擁立されて小弓御所となっていた足利義明が、勢力を拡大し武蔵方面への進出を企図するようになっていたのです。


足利義明のこの動きに対して、北条氏綱は古河公方である足利晴氏と結び、義明の動きを牽制しようしたのです。


このような情勢下で、上総で武田氏の内紛が勃発します。


この内紛に際し、足利義明と里見氏当主である里見義堯は武田信応に味方しました。
 

一方で、北条氏綱は武田信隆を支援したため、足利義明と里見義堯らとの対立は避けられないものとなってしまったのです。


1538年11月、足利義明は里見義堯を中心とした里見軍の兵を率いて出陣し、現在の千葉県にある国府台に布陣しました。


北条氏綱は武蔵に出陣し、現在の東京都葛飾区にある葛西城を落し江戸城に入ります。


江戸城での軍議を終えた氏綱は、国府台に赴き足利義明、里見義堯連合軍と決戦に挑んだのです(第一次国府台合戦)。


北条氏綱は里見義堯の消極的な行動にも助けられ、足利義明を討ちとることに成功します。


こうして里見氏らと戦いは北条方の大勝利となったのです。




この合戦において、遠山綱景は多目元忠らと第二陣に属し戦ったとされています。


そして、この合戦を契機に江戸城代を務める遠山氏を中心とした江戸衆が形成され、遠山氏における江戸城支配はより強固なものとなっていったのです。


その後、江戸城代として江戸周辺の地域を支配した遠山綱景は、1558年には江戸城の東側に位置する葛西城を与えられています。




ちなみに、遠山綱景は文化人としての一面もあり、1544年には連歌の会を催しています。


父である遠山直景が京都で働いていたことが影響していたのかもしれません。

第二次国府台合戦・・・



 そして1562年、遠山綱景にとって重大な事件が起きてしまいます。


同じく江戸の城代を務めていた太田康資が北条家を離反して上杉家に寝返ってしまったのです。


太田康資は太田資高からその後を継いで太田家の当主となっていた人物です。


太田康資の曾祖父は名宰相と名高い太田道灌で、名家としてのプライドがあったのでしょう。


そのため、恩賞に不満を持っていたのかもしれませんね。


また、太田康資は江戸城の本丸では無く、三の丸に入っていたことも気に入らなかったのかもしれません。




太田康資は親族である太田資正と密議をして上杉家への寝返りを画策します。


その作戦は北条氏康と氏政親子を国府台におびき出し、その背後から江戸城を攻めるという計画を練っていたのです。


太田康資は話し合いの場として法恩寺を選択し、法要を開くとみせかけて密議を行っていました。


この密儀を聞いた法恩寺の住職は江戸城代である遠山綱景に密告し、太田康資の計画は露見したのです。


密儀が発覚した太田康資は江戸城を脱出し、岩付城にいる太田資正の下に逃走します。


1563年、この報を聞いた北条氏康は、太田資正の城でもある武蔵松山城を武田信玄と共に攻撃します。


そして1564年正月、上杉謙信から太田救出の要請を受けた里見氏が出兵して、北条家と大戦となってしまったのです。


世にいう第2次国府台合戦です。1564年1月7日、遠山綱景は同じく江戸城代である富永直勝と共に出撃します。




遠山綱景と富永直勝は同じ城に住んでいた太田康資の裏切りを気づけなかった事を恥じていたため焦って行動してしまいます。


この時、北条綱成が本隊を率いていましたが、遠山綱景と富永直勝は先行して江戸川を渡河してしまい、そこを里見氏に狙われ討死してしまったのです。


江戸衆を率いる二人の討ち死には北条家に衝撃を与えました。


享年52。




ちなみに、この第二次国府台合戦は本隊である北条綱成の奇襲が成功し北条方の勝利に終わります。


しかし、この戦いで江戸衆が壊滅し、この後の里見氏の戦いである三船山合戦で北条氏は大敗を喫してしまいます。


北条家は遠山綱景、富永直勝の死によって関東東部における優越性を失ってしまったのです。

まとめ



 いかがでしたか


遠山綱景は現在の皇居のある江戸城で非常に重要な役目を果たし、北条家において大活躍した武将です。


そして、国府台の地は江戸衆結成と壊滅を引き起こした因縁の地となってしまったようです。


戦国期において、江戸と国府台は深い因縁で繋がっていた事がわかっていただけたかと思います。


正直、私は遠山氏という名前を聞くと、東美濃に存在し武田信玄の西上作戦で被害を被った遠山一族を思い出してしまいます。


遠山氏に嫁いでいたおつやの方が、武田信玄の猛将秋山虎繁に嫁いで悲劇的な最期を遂げてしまった事を思い出してしまいます。


しかし、江戸において同族の遠山氏である遠山綱景が大活躍したことを忘れてはいけませんね。




今回は北条家において江戸で大活躍した遠山綱景についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


コメント一覧

返信2019年12月28日 12:16 AM

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返信2019年12月28日 12:16 AM

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返信2019年12月28日 12:18 AM

北条綱高 北条家で赤の軍団を率いた男 北条早雲に育てられ武勇の誉れ高い北条綱高とは・・・ – うたみのブログ26/

[…]  1506年4月、北条綱高は伊豆国雲見上ノ山城で生まれます。父である高橋高種が北条綱高が10歳の時に亡くなると、外祖父である北条早雲に養育されたと言われています。1519年正月に元服し、その年に外祖父である北条早雲は亡くなります。身の丈は5尺5寸(168センチぐらい)と言われ、父親を誘った一族である多目氏に師事して伊豆国韮山に居住したと言われています。 ちなみに多目氏とは北条早雲の代に早雲に従った御由緒六家の一つで、北条家の重臣中の重臣です。多目氏は北条氏康の軍師として河越夜戦で大活躍した多目元忠が有名ですね。北条綱高は早雲の後を継いだ北条氏綱にも信頼され、扇谷上杉家との戦いで大活躍していくのです。1524年、北条氏綱は扇谷上杉家の居城である江戸城攻略に眼を向けます。北条氏綱は江戸城の創設者である太田道灌の孫の太田資高を調略したのです。北条綱高は調略によって江戸城を奪い取られた上杉朝定を追撃し、大打撃を与えることに成功しました。この功績によって北条綱高は相模国玉縄城代を任され、北条氏綱の猶子となり「綱」の1字と「北条」を名乗る事を許されました。ここに高橋家の当主では無く、北条家の一門としての北条綱高が誕生したのです。1534年、北条綱高は扇谷上杉家臣の難波田善銀が守る深大寺城を攻略します。その3年後の1537年、綱高は弟の高橋氏高と共に深大寺城奪回に押し寄せた難波田率いる扇谷上杉軍と対峙します。この時、北条綱高は武藏野の牟礼という場所に砦を築いて抵抗しました。その間に北条氏綱の軍が河越城へ進軍したため、難波田勢は背後を脅かされて撤退します。北条綱高はこの撤退する難波田勢を追撃し、多くの敵兵を討ち取り大勝したと言われています。北条綱高は江戸城の追撃戦に続き、この戦いでも追撃戦を仕掛け扇谷上杉家に大打撃を与えたのです。正に追撃の鬼というべき猛将ですね・・・。この頃、北条綱高の武名は内外に轟いていたと考えられ「北条五色備の赤備え」として恐れられていたと思われます。 同年の1537年、北条綱高は江戸城の城主となり対扇谷上杉家を任されることとなったのです。 ちなみに、後の江戸城の城代は本丸に富永直勝、二の丸に遠山綱景、三の丸に太田康資が入っていて、第二次国府台合戦の原因にもなってしまいます。城主はその更に上司にあたる役職なので、北条綱高は非常に辛い心境であったことは間違いないでしょう。1546年、北条綱高は日本三大奇襲に入る河越夜戦にも参戦し、北条綱成らと共に上杉朝定、古河公方足利晴氏の連合軍と河越城で戦っています。1554年10月には落髪し、龍山と号し龍雲斉と名乗っています。この頃になると隠居の身であったと考えられます。息子である北条康種は、1553年の今川家との戦いで功を上げているので、この戦いを見届けて隠居したのかもしれません。そして1564年、江戸城の三の丸に居住していた太田康資が裏切り、第二次国府台合戦が勃発してしまいます。この戦いに北条綱高も高齢でありながら参陣しています。上記に記したように江戸城城代である富永直勝、遠山綱景らと同じく、負い目を感じていたのかもしれません。 1585年、北条綱高は江戸城でその長い生涯を終えます。享年80。 […]

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