• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 

 今回は後北条家で青の軍団を率いた武将富永直勝についてみていきたいと思います。


富永直勝については信長の野望等のゲームで登場してどんな武将なんだろうと感じた方もいたのではないでしょうか。


私もその一人で、北条家の五色備えについては北条綱成以外の武将を良く知らなかったのが現実でした。


今回はその五色備えの中で青色を担当した武将富永直勝についてみていきましょう。







ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~



富永氏について



 富永直勝は1509年、西伊豆の土肥に移住して急速に勢力を伸ばした富永政直の子として産まれます。


この富永政直は土肥富永家の初代と目されていて、近江で生まれた後西伊豆の土肥に移住したと言われています。


富永氏は、古代の豪族として有名な大伴氏の末裔で、応天門の変の首謀者として没落した伴善男の後裔とされています。


伴善男の子清平は平松太郎と称して甲賀富永氏の祖となり、弟にあたる清助は三河幡豆郡司となってその子孫が三河富永氏となったそうです。


富永政直はこの三河富永氏の一族ではないかと言われています。


富永政直は西伊豆地方に散在した小海賊や水軍を支配下に収め、急速に勢力を伸ばしていきました。


富永政直は土肥高谷城や丸山城を本拠として土豪化したと言われています。




そして1491年、後北条家の当主として独立した戦国大名になっていた北条早雲に属し、1493年には興国寺の城代に任じられています。


1524年には、北条早雲の後を継いだ北条氏綱に従って、江戸城を奪い取りその城代となっのです。

同じく江戸城の城代太田康資の裏切りを見抜けず・・・


 
 前置きが長くなりましたが、この後富永政直の後を継いだのが富永直勝でした。


富永直勝は三代目後北条家の当主である北条氏康に仕え、江戸城の城代に任じられていました。


伊豆国西土肥の他に武蔵の一部や相模国西郡飯田などの所領も持ち、合わせて1400貫ほどだったと言われています。


また、後北条氏には北条五色備という部隊があります。


これは北条家の中で特に重要な家柄に与えられる部隊で、五家老に列せられるとその色別の部隊を任されていたようです。


富永直勝はこの中で青備えを担当していて、五家老に列せられていたと考えられています。


ちなみに、かの有名な北条綱成はこの中で黄色の軍団を任されています。




江戸城の城代に任じられていた富永直勝ですが、江戸城の城代としては本丸に入って業務を行っていました。


江戸城には城代が3人おり、二の丸には遠山綱景、三の丸には太田康資が入っていました。


本丸で業務を行っていたということで、江戸城の城代としては一番上の格だったと考えられます。


この江戸城の状況が後の富永直勝らの運命を左右してしまう問題となってしまうのですが、その話は後ほどお話させていただきます。


富永直勝は更に下総国(現千葉県)葛西城代にも任命されていたようで、北条家がどれだけ富永直勝に信頼を寄せていたかがわかるかと思います。




1556年、富永直勝は相模三浦(現神奈川県三浦市)三崎沖で里見氏との海戦に参加しています。


この海戦は里見方の優勢に展開したようで、天候が暴風雨となったために北条側は助けられたと考えられています。




そして1562年、富永直勝にとって重大な事件が起きてしまいます。


同じく江戸の城代を務めていた太田康資が北条家を離反して上杉家に寝返ってしまったのです。


太田康資は名宰相と名高い太田道灌を曾祖父に持つ太田家の嫡流にあたる人物です。


そのため、プライドが高く恩賞に不満を持っていたのかもしれません。


また、江戸城の本丸では無く、三の丸に入っていたことも気に入らなかったのかもしれません。



しかし、太田康資は隠密での寝返りに失敗し、親類である太田資正の下に身を寄せます。




そして1564年正月、上杉謙信から太田救出の要請を受けた里見氏が出兵して、北条家と大戦となってしまったのです。


世にいう第2次国府台合戦です。


1564年1月7日、富永直勝は同じく江戸城代である遠山綱景と共に出撃します。


富永直勝と遠山綱景は同じ城に住んでいた太田康資の裏切りを気づけなかった事を恥じていたため焦って行動してしまいます。


この時北条綱成が本隊を率いていましたが、富永直勝と遠山綱景は先行して江戸川を渡河してしまい、そこを里見氏に狙われ討死してしまったのです。


江戸衆を率いる二人の討ち死には北条家に衝撃を与えました。


享年56。




富永直勝の死後、子の富永政家が富永家を継ぎ父と同じ江戸城代を任されました。


その他に栗橋城代なども兼務し、富永家として北条五家老の一人となって北条家を後々まで支えていったのです。

まとめ



 いかがでしたか。


富永直勝については資料が少ないこともあり、わからないことが多いと言われています。


しかし、北条家の五色備えで青の軍団を率いていたのは事実であり、海軍を率いた有能な大将だった事も間違いないでしょう。




今回は北条家の青の軍団の大将富永直勝についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


コメント一覧

返信2019年12月26日 12:07 AM

太田康資 太田道灌のひ孫で原虎胤を撃退した男 江戸城の城主になれず北条氏康を裏切った太田康資とは・・・ – うたみのブログ26/

[…] ったのです。その後、江戸城は北条方の重要拠点として位置づけられ、江戸城の本丸には富永直勝の父である富永政直が入り、二の丸には遠山綱景の父である遠山直景が入ったようです […]

返信2019年12月26日 12:25 AM

北条綱高 北条家で赤の軍団を率いた男 北条早雲に育てられ武勇の誉れ高い北条綱高とは・・・ – うたみのブログ26/

[…] なり対扇谷上杉家を任されることとなったのです。 ちなみに、後の江戸城の城代は本丸に富永直勝、二の丸に遠山綱景、三の丸に太田康資が入っていて、第二次国府台合戦の原因にもな […]

返信2019年12月28日 12:14 AM

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[…]   遠山綱景は1513年頃、北条家の重臣である遠山直景の子として産まれます。遠山直景は、遠山家の一族として1490年から1493年頃まで将軍職にあった足利義稙の家臣として活躍した人物になります。遠山とは美濃、三河、信濃の南部にまたがる山中の総名称で、平安時代末期に藤原北家の利仁流の加藤氏がこの地の地頭となり、遠山を名乗ったことから始まったと言われています。その後、遠山氏は東美濃の岩村城を本拠とし活躍したようで、美濃守護となった土岐氏の被官的な立場になったようです。つまり、遠山直景は土岐氏の被官として中央にある足利将軍家に奉公していたということになります。1491年頃、北条家初代となる北条早雲は申次衆を務めており、遠山直景と早雲は京都にある幕府内部で知己となったと考えられます。そして1492年、応仁の乱以降権威の失墜していた幕府で内乱が勃発します。この内乱に遠山直景は巻き込まれて敗走し、知己であった北条早雲を頼って伊豆に逃れてきたと思われます。これが遠山家が北条早雲の重臣となった背景になります。この後、遠山直景は松田氏や大道寺氏とともに後北条氏の三家老となり、重きをなしていったと言われています。1524年、関東では扇谷上杉家と北条氏綱の争いが続いていました。そこで、北条氏綱は扇谷上杉家に不信感を抱いている太田康資の父である太田資高を調略し、約20000の兵を率いて江戸城を攻撃したのです。 江戸城攻防戦は大激戦となりましたが、結果として北条方の勝利に終わり、敗れた上杉朝興は河越城へ逃げ込みました。江戸城はこうして北条氏の手に落ちたのです。そして、北条氏綱は江戸城を修築すると、遠山直景を城代として武蔵進出の最前線を担わせたのです。ちなみに、江戸城の城代は3人配置されていて、本丸には富永直勝の父である富永政直、二の丸には遠山直景、三の丸には太田資高が入っています。このことから、本丸の富永氏を城代の主席と見がちですが、同時代の資料によると北条家は遠山氏に重きを置いていたようです。その後、1533年に遠山直景が亡くなると遠山綱景が家督を継ぎ、江戸城の城代としての御役目も相続することなったのです。 […]

返信2020年1月12日 1:05 AM

清水康英 北条家の白の軍団を率いた男 北条氏康の乳兄弟で秀吉に二か月近く抵抗した清水康英とは・・・ – うたみのブログ24/

[…]  清水康英は1532年、伊豆清水氏二代目当主である清水綱吉の子として産まれます。清水氏は北条氏康の代に氏康の博役、乳母となった一族で、氏康の代以降で急速に勢力を拡大した一族となります。清水康英の父清水綱吉の弟に清水吉政という人物が存在します。この清水吉政は北条氏康の博役となった人物で、幼少時に暗愚といわれ引っ込みがちだった氏康をよく補佐したと言われています。北条氏康は臆病で慎重な性格であったため、自信を持たせるために数々の褒め言葉を授けたと言われています。清水吉政は、2007年の大河ドラマ風林火山で常に北条氏康の傍近くで行動し助言する人物として描かれています。また、清水康英の母または祖母は北条氏康の乳母とされていて、北条家と非常に強固な関係性を築いたと考えられています。清水康英は1559年に書かれた「小田原役帳」によると、伊豆衆の中で最も多い知行としなる847貫ほどの禄を得ていたようです。清水康英は伊豆衆を統括し、河越城の北条綱成、玉縄城の北条綱高、栗橋城の富永直勝、下田城の清水康英、平井城の多目元忠を五家老とし、五色備えの体制をなしたと言われています。清水康英は文官としても優秀で、訴訟の裁決や政策立案を携る評定衆を務めており、北条氏康の参謀的立場でもであったようです。ちなみに、清水康英の跡継ぎである新七郎は1569年の蒲原城の戦いで討ち死にし、次男である政勝が新たな跡継ぎとなったようです。清水政勝は1581年には長久保城主に任命され、1587年には上野金山城主をも務めています。 […]

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