今回は2020年大河ドラマで斎藤道三と対立することになる土岐頼芸についてみていきたいと思います。
「誰」って思う方が大半だと思います。
正直自分も斎藤道三に負けて国を追われたというイメージしかありませんでした。(笑)
信長が台頭する以前の美濃国(現岐阜県)ではこの土岐頼芸が斎藤道三と争っているという歴史があります。
ちなみに土岐頼芸は戦を主導する能力は低かったようですが、文化人としては優秀でした。
それが鷹の絵を書くことだったようです。
鷹の絵を書くことに没頭しすぎたため、斎藤道三に愛想を尽かされてしまったのかもしれませんね。
あまりメジャーな武将ではありませんが、今回はわかりやすく説明できたらと思います。
それでは少し視ていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
その土岐頼芸は第12代当主である土岐政房の次男として生まれます。
土岐家というはの元来守護という役職で、今でいうところの県知事みたいな感じの家柄です。
土岐政房には長男である土岐頼武という人物がいましたが、政房は次男である頼芸を可愛がります。
そして次男である頼芸を後継者にしようとします。
良くある話ですが1517年頼武、頼芸の間で家督争いが勃発してしまいます。
守護を補佐する役職に守護代というのがあるのですが(ナンバー2みたいな感じ)、守護代である斎藤利良は頼武を、小守護代である長井長弘は頼芸を推して戦が始まります。
最初の戦いでは守護代の力を背景に頼武が勝ちますが、翌年の1518年では前守護代の斎藤彦四郎の助力を受けて頼芸が勝ち、頼武を越前国(現福井県)に追放することに成功します。
その間、父親で頼芸を応援していた土岐政房が1519年に没します。
更に頼武は越前国主の朝倉孝景の血縁である女性と結婚し、朝倉孝景の後援を受ける事態となり頼芸は圧倒的不利に立たされます。
1519年朝倉孝景の後援で美濃国に侵攻してきた頼武は頼芸に勝ち、守護につくことになりました。
しばらくは美濃国は頼武の治世で安定していたと言われています。
1521年には守護代の斎藤利良は引退し、斎藤利茂が守護代として政務にあたったようです。
しかし1525年、土岐頼武、斎藤利茂体制に代わっていたことを契機と見たのか、土岐頼芸を推していた長井長弘は後の斎藤道三などとともに挙兵します。
予期していなかった頼武側は、斎藤利茂の居城の稲葉山城、頼武の守護所の福光館を相次いで占拠されてしまいます。
その後も小競り合いは続き、1530年遂に頼武を越前に再度追放し、再び頼芸は守護に就くことになりました。
ちなみに1526年には斎藤道三の助力を受けたこともあり、自分の愛妾だった深芳野(みよしの)という女性を道三の側室に迎えさせた。
後に斎藤道三と深芳野の間に産まれた子供が斎藤義龍ということになります。
越前に逃れた土岐頼武は朝倉軍の助力を得て、美濃国に入ることはできましたが実権は土岐頼芸が握っていました。
1535年土岐頼芸は父親政房の17回忌法要を行い、自らが正当の当主だと内外に示してしまいます。
この行動に怒った土岐頼武は朝倉、六角氏(今の滋賀県あたりの国主)を味方に引き入れ対決姿勢を鮮明にします。
この時頼武は病に臥せていたと考えられていて、家督を息子の土岐頼純に譲っています。
以後頼武派は頼純に受け継がれていくことなります。
しかし、翌年1536年、土岐頼芸が六角家当主の六角定頼の娘と婚姻したことで状況が一変します。
これまで頼武、頼純親子側についていた守護代の斎藤利茂が、六角定頼の仲介により土岐頼純を見捨てて土岐頼芸側に就いてしまったんです。
劣勢に立たされた頼純は1539年頼芸と和議を結びます。
土岐頼芸は再び勝利を収めて、ようやく美濃国に平穏が訪れると誰もが思っていました。
しかし、1541年土岐頼芸の弟の土岐頼満が斎藤道三に毒殺されると、斎藤道三と土岐頼芸の関係は悪化します。
斎藤道三と土岐頼芸の関係は引き返せないところまで発展してしまい戦になってしまいました。
1542年、土岐頼芸は居城である大桑城を斎藤道三に攻められ敗走し、尾張(現愛知県の一部)に逃亡することになってしまうんです。
土岐家同士の争いが家臣につけ入る隙間を与えてしまい、斎藤道三というマムシを生んでしまったんです。
1543年斎藤道三によって土岐頼純も追い立てられ、再び越前に逃亡します。
このことにより土岐家は美濃国から放逐されたことになります。
土岐頼芸、土岐頼純は父の代からの長年の仇敵でしたが、共通の敵である斎藤道三と戦うために美濃復帰を目指して手を結びます。
1544年、頼芸は尾張の織田信秀、頼純は越前の朝倉孝景の協力を得て美濃に入国を果たします。
流石に敵を作りすぎた斎藤道三は1546年、頼芸、頼純と和議を結びました。
和議の条件は頼芸の隠退と頼純の美濃守護職の就任でした。
頼純は美濃でのトップに立つことになりましたが1547年、突如急死します。
この突然の死は斎藤道三の暗殺だとも言われています。
この事が契機になって頼芸はまた劣勢に立たされ1552年再び美濃を追放されてしまいます。
その後、土岐頼芸は晩年になるまで美濃に帰ることは無く、放浪の身になったようです。
近江国(現滋賀県)、常盤国(現茨城県)、上総国(現千葉県)、甲斐国(現山梨県)と様々な人を頼って生き延びたと言われています。
時は流れ1582年、織田信長の武田討伐の折に偶然発見され、旧家臣であった稲葉一鉄に保護され美濃で残りの人生である半年を過ごしたと言われています。
いかがでしたか。
土岐頼芸については個人的に思うことはありますが、一言でいうと他力本願だとおもいませんか?
土岐家自体が近くの大名にひたすら助けを求めるだけで、自らが解決しようとしてないと感じてしまいます。
自分で家臣と話し合い、家臣をまとめ導くというような資質が無いように感じます。
ただ土岐家が強力な大名であったなら、また違った歴史があったかと思うとわくわくしますが・・・
今回は土岐頼芸についての話でした。
随時、大河ドラマに関係ある人物を紹介していきたいと思っています。
ではでは~