今回は北条氏康の軍師とされる武将多目元忠についてみていきたいと思います。
多目元忠という人物は北条家において五色備えと言われる色付きの軍団を一つ任されている人物です。
多目元忠はその中で黒色の部隊を任されていました。
今回は謎の多い武将の一人でもある多目元忠についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
多目元忠は北条早雲以来の重臣である多目元興の子で、多目周防守元忠と称された人物です。
多目氏は神奈川県横浜市にある青木城を本拠とし、北条早雲が相模を平定した後に所領としてこの辺り一帯を知行したと考えられています。
父親である多目元興は、北条早雲が韮山城を奪い取り戦国大名として名乗りを上げる前からの家臣で、伝説が一つ残されている人物でもあります。
北条早雲が幕府の要請で駿河に向かう際、大道寺太郎・多目元興・荒木兵庫頭・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛尉ら6人と神水を酌み交わします。
この酌み交わしの際に「この中の誰か一人がいち早く大名になったら、他の者はその家臣になろう」と誓い合ったと言われています。
その後、北条早雲が伊豆に討ち入り戦国大名となると彼ら6人は早雲に従います。
彼らは御由緒六家と呼ばれ北条家で重臣として活躍していくことになったのです。
この中の一人が多目元興でした。
ちなみに、御由緒六家に相模の土豪である松田氏の松田盛秀を加えた7つの家を「草創七手家老」と呼び、北条家の初期の重臣中の重臣として名を残しています。
松田盛秀の後を継いだのが松田憲秀で、北条氏康の下で家老として活躍する人物となります。
北条早雲は伊豆討ち入りをした後、相模の小田原城の攻略に乗り出します。
この時、多目元興が先陣の大将を務めたとされています。
このように、多目氏は御由緒六家の一員としてその後も北条家で活躍していくこととなるのです。
多目家については不明な点も多く、多目元興についての生没年はわかっていません。
今回お話させていただいている多目元忠においても生没年は不明で、いつ家督を継いだのかもわかっていません。
しかし、多目元忠は北条氏康の時代の軍師と伝わっていて、北条氏康の代に発生した河越夜戦で大活躍します。
河越夜戦とは扇谷上杉家の上杉朝定、山内上杉家の上杉憲政、古河公方の足利晴氏らが連合して、北条綱成が守備する河越城を包囲した際の大戦です。
そこで、河越夜戦の経緯について少しお話させていただきます。
河越夜戦は1546年に起きた上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏連合軍と北条氏康との大決戦で、北条氏康の父北条氏綱の死が一つの契機だと言われています。
北条氏綱が亡くなると、これを契機と見た今川義元は1545年7月に関東管領である上杉憲政と内通して挙兵します。
駿河にあった北条方の拠点は、以前に今川義元が北条氏綱に奪い取られた領地でした。
今川義元はこの地の奪還を目論んだのです(第二次河東の乱)。
家督を継いで間もない北条氏康は、今川義元の挙兵を知り駿河に出陣するものの、甲斐の武田信玄も義元の援軍として出陣してきたために窮地に陥ります。
そしてこの在陣中、今川義元と通じていた上杉憲政をはじめとする連合軍は北条方の重要拠点である河越城を包囲してしまうのです。
北条氏康はこの窮地に際し武田信玄を通じで解決を図ります。
氏康は信玄の斡旋の下、今川義元に譲歩することで和睦を成立させたのです。
氏康は挟撃されている絶体絶命の危機の中で西方の争いを収め、関東の上杉連合軍への対処が可能になったのです。
関東方面では一部の北条方の武士を除く関東の武士すべてに号令がかけられ、上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏らの大連合軍が河越城の奪還を開始していました。
この連合軍の総兵数は80000とも言われていて、関東のほとんどの兵が割拠する圧倒的な数となっていました。
北条氏康は、この事態を知り策を巡らせます。
氏康はまず偽の降伏文書を各所にばらまき、敵方に戦う意思が無いと思わせました。
また、上杉勢に酒などの貢ぎ物を送り包囲軍の気の緩みを待っていたのです。
そして、北条氏康は今川義元との戦いに割いていた兵を集めて8000の兵で出撃します。
この時、多目元忠は北条氏康の本隊8000のうちの2000を任せされ、後詰として後方からの戦況把握を託されたと言われています。
北条氏康の奇襲に驚いた連合軍は大混乱に陥ります。
扇谷上杉家の当主である上杉朝定がこの攻撃により討死すると、北条氏康は勝気になり逃げ出そうとした足利晴氏を深追してしまいます。
多目元忠は北条氏康のこの動きを見て、出過ぎた軍勢を戻そうと引き上げの法螺貝を独断で吹いたのです。
この法螺貝を聞いた北条勢は全軍が一旦引き上げます。
そして、この動きを契機と見た北条綱成は「勝った!勝った!」と叫びながら河越城から城兵を繰り出したのです。
この多目元忠の采配と北条綱成の機転によって、引き上げた軍勢と河越城の城兵が足利晴氏の軍勢を挟み撃ちさせることとなったのです。
この攻撃により連合軍は大打撃を被り、北条氏康は大勝利を収めることが出来ました。
この独断での引き上げの法螺貝は本来であれば重大な軍紀違反となります。
しかし、北条氏康からは絶賛され、お咎めは無かったと言われています。
この後、北条氏康が関東管領上杉憲政を関東から追い出すと、多目元忠はその居城であった平井城に入城します。
そして1590年、多目元忠は豊臣秀吉の小田原攻めの際に討死したと言われています。
しかし、この情報は誤りの可能性もあります。
それは、この時に討死したのは同族となる多目長貞であったとも考えられているからです。
確かに、1546年の河越夜戦で活躍した多目元忠が1590年に生きているとは考えにくいですね。
いかがでしたか。
多目元忠については正直資料に乏しく、分からない事が多いと言われています。
ちなみに、多目元忠が河越城で活躍した話ものちの軍記物による記載なので、創作という可能性もあります。
ただ河越城の戦いが北条方の一世一代の大勝利であることは確かであり、その勝利に多大な貢献をした武将が居てもおかしくありません。
今回は北条家の黒の軍団の大将で北条氏康の軍師でもあった多目元忠についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~