• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 

 2020年の大河ドラマでは、駿河の大大名の今川家の最重要人物でとして太原雪斎が登場することになると思います。


ある程度戦国時代を知っている人なら太原雪斎という人物について聞いたことがあると思います。


太原雪斎は今川義元を支えた師匠であり、今川家の政治を取り仕切っていた人物だと言っていいと思います。


この人物が居なければ今川義元という人物を描くことすら難しいと言えます。


また、織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の戦いですが、太原雪斎が存命ならそのようなことにはならなったとも言われています。


織田信長の運命を変えてしまった可能性のある太原雪斎について少しみていくことにしましょう。


ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~

師匠として・・

 太原雪斎は1496年、今川家の家来である庵原城主、庵原政盛の息子として生まれました。


母方は興津家の産まれであり、庵原家、興津家は共に代々今川家に仕えている名家でした。


この時代、長男以外の男子は仏門に入って修行をすることがよくありました。


太原雪斎もその一人で1509年駿河(静岡県の東部)の善徳寺というところで入り修行を積みました。


修行を続けていくうちに賢くて優秀な太原雪斎は噂になります。


1522年頃、当時の今川家の当主である今川氏親がその噂を聞きつけ、生まれて間もない5男の方菊丸の教育係をお願いされました。


しかし、太原雪斎はこの要請を2度断りましたが、再三の要請に応え、方菊丸の教育係になったようです。


この方菊丸こそ後の今川義元です。


この後、太原雪斎と今川義元は各地のお寺を周り、二人三脚で修行をしていったと言われています。


今川義元は幼少時に太原雪斎と生活することで様々な事を学び、後に海道一の弓取りと言われることになるんです。

弟子の家督争い

 1526年、今川家当主である今川氏親が亡くなります。


その後を継いだのが当時14歳だった氏親の長男である今川氏輝でした。


しかし、今川氏輝は生まれながら体が弱く10年後の1536年急死します。


そして不可解な事件が起きます。


今川氏輝が亡くなった同じ日に次男である今川彦五郎も急死したのです。


確たる証拠もなく謎に包まれたこの事件により、5男である今川義元は当主の候補の一人となったのです。


3男である玄広恵探と今川義元との間でこの時家督争いが起きます。


この争いは玄広恵探の居城である花倉城にちなんで花倉の乱と呼ばれています。


玄広恵探は側室の間に産まれた子であり、今川義元は正室の寿桂尼の間に産まれた子でした。


本来であれば兄である玄広恵探が家督を継ぐはずでしたが、側室の子であったため争いが起きたんです。


この時太原雪斎は当然今川義元側で戦いました。


その過程で長年争っていた甲斐の国(現山梨県)の当主である武田信虎と和睦します。


この和睦を勧めたのが太原雪斎であると言われています。


背後にある武田家という脅威を取り除いた今川義元は、玄広恵探との戦いに集中することができるようになります。


次第に今川義元が優勢になり、追い詰められた玄広恵探は花倉城を逃れ自害したと言われています。


このようにして今川義元は家督を継ぎ今川家の当主となったのです。

最高顧問として大活躍!!

 今川義元が当主になると師匠である太原雪斎は軍事、政治において最高顧問に就任します。


1537年、武田家と友好関係を更に深めるために武田信虎の長女である定恵院を今川義元の正室に迎えます。


また、武田信虎の息子で後の武田信玄である武田晴信の正室に、今川家の縁戚である三条家から娘を嫁がせます。


太原雪斎はこれまでの今川家の方針とは違って武田家との友好に重きを置きました。


恐らく軍事的に強硬路線である武田信虎の脅威を排除したかったのと、今川家と縁戚にあって東の脅威である北条家のけん制であったと思われます。


太原雪斎の狙い通り、北条家はこの武田家との同盟に怒り河東(静岡県東部の一部)に攻めかかってきました。


これを河東の乱と言われています。


太原雪斎の一族である庵原家は静岡県の東部である庵原の出身で、この河東の地については北条家に敵対した方が良いと考えたんだと思います。


一時は北条家に河東の地を取られますが、後に関東管領である山内上杉家をそそのかして、その間に河東の地を取り返しています。



話は変わり、今川家の領国の西部についてお話させていただきます。


今川家の西部には三河(愛知県東部)という場所があります。


ここは元来松平家(後の徳川家)が収めていましたが、松平家の弱体化に伴って織田家が西三河の拠点であるである安祥城を奪っていました。


1546年、織田家の織田信秀が更に西三河に侵攻してきます。


ここで自分では太刀打ちできないと考えた松平家の当主である松平広忠が今川家に救援を求めてきます。


この要請に今川義元は応えて、太原雪斎が大軍を率いて援軍に向かいました。


1549年、織田家の西三河の拠点である安祥城を太原雪斎は落とします。


この時、織田家に奪われていた松平広忠の息子で後の徳川家康である竹千代の奪還に成功します。


このように太原雪斎は東に西に脅威となる敵国に囲まれながら今川家の勢力拡大に貢献していくことになるんです。

今川家天下統一に向けて しかし・・・

 更に太原雪斎は国の中心地である京を目指すため、東では無く西への勢力拡大に眼を向けます。


その足掛かりとして東部の安定化を盤石なものにするために動きます。


1552年、今川義元の長女である嶺松院を武田信玄の息子である武田義信に嫁がせます。


更に1554年、武田信玄と北条家の当主北条氏康に働きかけ三国の同盟に尽力します。


この同盟が後に甲駿相三国同盟といわれるものになります。


ちなみに有名な武田信玄と上杉謙信の戦いの第2次川中島の戦いでは、膠着する両者の間に立って和睦させたのが太原雪斎だと言われています。


更に松平家の遺児である松平竹千代(徳川家康)の教育も行います。


今川家に取り込んだ松平家を今川の家臣にし、盤石な体制を築こうとしたんだと思われます。


この太原雪斎の教育を受けた徳川家康は後の世の天下人になったのです。


そして東を盤石にし、西の松平家を取り込んだ今川家は西にある織田家への攻勢に出ることになります。


しかし翌1555年、既に太原雪斎の寿命は限界に来ていました。10月10日惜しまれながら死去したと言われています。

まとめ

 いかがでしたか


1555年で亡くなった太原雪斎ですが、その5年後の1560年桶狭間の戦いが起きます。


その9年後の1569年には今川家は滅亡します。


太原雪斎が居なければ今川家の発展はありませんでしたし、逆に死んでいなければ今川家の滅亡もなかったかもしれません。


その後の徳川家康の活躍を見ても太原雪斎の教えがいかに優れていたかがわかると思います。


唯一の太原雪斎の失敗は、今川義元亡き後の今川義元の息子である今川氏真への教育だと思います。


もう少し今川氏真に厳しい教えを行っていれば、違う未来があったのかもしれません。



今回は今川家の最重要人物である太原雪斎についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


コメント一覧

返信2019年12月17日 12:14 AM

織田信秀  尾張の虎と言われた男  今川義元、斎藤道三と渡り合った信長の父織田信秀とは・・・ – うたみのブログ26/

[…]  1539年、織田信秀は今の名古屋市中区に古都城という城を建てて、2つ目の経済の拠点である熱田を支配します。これで熱田の豪商達と津島の港町によって、莫大な資金を得ることになりました。このお金を背景に更に勢力拡大を図っていく事になります。1542年、斎藤道三が主君である土岐頼芸を追放し、美濃を乗っ取る事件が起きます。この事件を好機と見た信秀は土岐頼芸の求めに応じて、越前(現福井県)の朝倉孝景とともに美濃に侵攻します。ここで美濃の西側にある大垣城を奪い取ります。更に尾張の東側では三河国の松平国に揺さぶりをかけます。当時今川家に臣従していた松平家の当主松平広忠の息子で、後の徳川家康になる竹千代を尾張に奪い取ります。松平広忠が臣従の証として息子の竹千代を今川家に輸送する最中に、織田信秀のお金の力で買収された松平家の家臣が今川家を裏切り、尾張に移送したと言われています。この事に怒りを感じた今川義元の軍師、太原雪斎は織田家への侵攻を開始することになります。 […]

返信2019年12月17日 12:29 AM

今川義元 首を信長に取られた男 海道一の弓取りと言われ天下に近かった今川義元とは・・ – うたみのブログ26/

[…]  今回は2020年大河ドラマで駿河(現静岡県)の大大名として登場する今川義元についてみていきたいと思います。今川義元については「信長にやられた人」「信長に討たれた無能な人物」と思っている方がいると思います。しかし、それは全力で否定したいと思います。今川義元には師匠であり軍師である太原雪斎という人物がいます。「太原雪斎が居なければ今川義元なんて」と思う方もいると思います。そういう一面も確かにあるかもしれませんが、それだけなら太原雪斎が死んだ途端今川家が崩れたはずです。どの時代でも信長の引き立て役になってしまう今川義元について今回はみていきたいと思います。 […]

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