• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 

 今回は上杉家において家中一の猛将とも言われた水原親憲についてお話させていただきます。


水原親憲という人物は一言でいうと痛快な生き様であったと言えるでしょう。


水原親憲は数々の逸話が存在し、その話を聞くと周りに気を配り慕われた武将であることがわかります。


また、戦国最後の戦でもある大阪の陣では、将軍である徳川秀忠からもらった感状をその場で開いて笑い飛ばしたと言われています。


今回は痛快に戦国の世を渡り歩いた水原親憲についてみていくことにしましょう。




ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~



鬼小島弥太郎を助け、蘆名家当主・蘆名盛隆を調略?



 水原親憲は1546年、魚沼郡浦佐城主である大関親信の子として産まれます。


この時はまだ水原という苗字では無く、水原を名乗るのは新発田重家の乱以降ということになります。


そして、水原親憲という人物を最初に確認できる出来事は、1561年に起きた第四次川中島の戦いということになります。


水原親憲はこの川中島の戦いにおいて活躍し上杉謙信より賞賛されたと言われています。




この後、資料として水原親憲が表立って活躍し始めるのは、上杉家の家督争いである御館の乱以降になります。


上杉謙信の死後に起こった御館の乱では上杉景虎ではなく、上杉景勝を支持して転戦します。


1579年2月水原親憲は景勝側に立ち、自分の領地にほど近い新潟県魚沼郡広瀬の小平尾という地を攻略しています。


御館の乱終結後の1580年5月、混沌する越後において上杉景勝の実家である上田の守備にも付いています。


この上田の守備を命じられたことからも上杉景勝からの信頼が伺えます。




しかし程なくして、水原親憲は一時期的に上杉家を離れ蘆名家に身を置きます。


水原親憲は蘆名家当主蘆名盛隆の家臣である新国貞通の下に身を寄せていたと言われています。


これは、上杉景勝が混乱する越後において、隣国である蘆名家を取り込もうとしたからだと考えられます。


この時、上杉家家臣として共に蘆名家に身を寄せていた武将が居ました。


それは鬼小島と評され恐れられていた猛将小島弥太郎でした。


この頃、小島弥太郎は蘆名家においての合戦で失敗し、蘆名家の家臣から「越後の鬼小島、会津では味噌小島」と揶揄されていました。


しかし、水原親憲は合戦において大活躍を見せて、小島弥太郎の汚名を返上することに成功したと言われています。


猛将と名高い小島弥太郎もこれには脱帽したことでしょう。




そして1580年6月、水原親憲は蘆名盛隆の家臣新国貞通の子である栗村範通から、親交を求める蘆名盛隆の意を上杉景勝に伝えて欲しいと依頼されています。


上杉家の家臣として、見事に外交交渉を成功したのです。


しかし、この交渉結果は蘆名盛隆の嘘であった可能性があります。


なぜなら、この後に起きる新発田重家の乱において、蘆名盛隆は新発田重家を支援することになるからです。

新発田重家の乱における要衝・水原城



 その後1583年2月、帰国した水原親憲河田長親亡き後の越中国において、須田満親と共に防備にあたっています。


水原親憲はこの時の功により更に知行を与えられたと言われています。




そして話は少し前後しますが、1581年6月に新発田重家の乱が勃発します。


この乱は上杉家最大の危機とも言われ、上杉景勝に死を覚悟させたと言われています。


ここで少し水原親憲が継ぐ水原家の居城水原城についてお話させていただきます。


この城は新発田重家の乱において双方が奪い合うほどの要衝としての重要性を持っていました。




1583年8月、上杉景勝は新発田重家の居城である新発田城を攻めましたが、攻め落とせないと見るや9月25日に撤退を始めます。


しかし、退却軍が放生橋という場所に差し掛かった頃に豪雨となり、上杉景勝軍は沼田と濁流の中で立ち往生となってしまいました。


この期をチャンスと見た新発田重家は、新発田城を出て追撃します(放生橋の合戦)。


上杉軍は進退の自由を奪われたため、安田家当主安田能元は生涯残る重傷を負い、殿軍の水原城主の水原満家が討ち死にするなど大混乱に陥ってしまったのです。


この戦いで、上杉景勝は優秀な家臣を多数失い、水原城は新発田方の手に渡ったのです。




1584年8月18日、放生橋の合戦で水原城主水原満家が戦死したため、水原城奪取のため上杉景勝は約8000の手勢で攻撃します。


上杉勢は新発田重家率いる本隊を水原城下に引き付けて戦い、その間に迂回して八幡砦を奪取することに成功します。


八幡砦を取られた新発田方は、水原城が孤立してしまうとこの城を放棄して退却を開始します(八幡表の戦い)。


ところが、上杉勢の直江兼続の陣が新発田重家の攻勢を受けて大損害を蒙っていたためにそれ以上進軍が出来ず、水原城もほどなくして新発田方の手に戻ってしまったのです。




1585年6月、上杉景勝は再び水原城を攻めましたが城将の剣持市兵衛、梅津宗三らが抵抗して容易には落ちませんでした。


そこで、上杉景勝は梅津宗三の身内の梅津伝兵衛に接触して内通を誘い、調略によってようやく水原城を落とすことに成功したのです。




少し長くなりましたが、これが新発田重家の乱における水原城の攻防戦です。


そして1586年、水原親憲は上杉景勝の命によって水原満家の後を継ぎ、水原城主となったのです。


ここでも、上杉景勝が水原親憲にどれだけ信を置いていたかわかると思います。

子供同然 お花見如くの戦・大阪の陣



  1598年、上杉景勝が会津へ移封されると、猪苗代城代に任じられ5500石の知行を与えられたと言われています。


1600年における慶長出羽合戦では奥州の雄最上義光と戦い、長谷堂城からの撤退戦に大活躍をみせます。


水原親憲は鉄砲隊200名を率いて前田慶次と共に戦います。


追撃してくる最上勢を鉄砲隊によって迎撃し、上杉軍撤退を見事成功させたのです。


さながら、島津家の釣り野伏せのようですね。




そして1614年、徳川家が豊臣家を滅亡させるべく大坂の陣が勃発します。


水原親憲の年齢は70近くになっていました。


鴫野の戦いにおいて、上杉家の第一陣には須田長義、第二陣に安田能元と水原親憲が配備されていました。


須田長義は須田満親の子で、上杉景勝は旧信濃衆の筆頭家臣であった須田氏に再びチャンスを与えようとしての布陣でした。


更に第二陣となった安田能元を憤慨させて各自士気を高めること、激戦に備えて熟練の水原親憲、安田能元の部隊を温存させておく意味合いもあったと考えられています。


この戦いにおいて、当初は上杉勢が優勢に戦いを進めていました。


しかし、後詰めとして大野治房が12000の兵で出撃してくると状況は一変します。


上杉勢の第一陣はに徐々に押され始め、須田長義は突き崩されてしまったのです。


そこで、控えていた水原親憲が大声を上げて鉄砲隊を出撃させ、大野治長の隊が戸惑っている間に安田能元は500の兵で大野隊に突撃します。


この第二陣の働きによって見事に敵軍を撃退し、撤退させることに成功したのです。




この活躍によって、水原親憲は2代将軍徳川秀忠から感状を賜います。


そして、水原親憲はこの感状を見て、こう言い放ったと伝えられています。


「こたびの戦は子供の石合戦のようなもので、怖くも骨折りとも思わなかった。謙信公の元で戦場を駆け回っていた頃は、今日死ぬか明日死ぬかと思いながら必死に戦ってきたが、一度も感状など貰えた事はなかった。こんな花見同然の合戦で感状をいただけるとは、おかしなことだ」と大笑いして人に語ったと言われています。


これは関ヶ原の戦いで上杉家を徳川家との戦いに導いておきながら、大坂の陣で徳川秀忠から感状を貰って喜んでいる直江兼続に皮肉を込めて語ったとも言われています。




そして、大阪の陣終結から翌年となる1616年5月、水原親憲は亡くなります。


享年71。

その他の逸話について



 最後にこれまで出てきていないその他の水原親憲の逸話について紹介して終わりにしたいと思います。

  • 水原親憲は兜に「風の神、雷の神、火の神」と書かれた団扇をあしらった前立てをつけていたと言われています。


  • 水原親憲の容貌について「其長鴨居をさえぎり、面は馬の如く、黒子多くして黒大豆を蒔たる如く」と記されていて、馬面で黒子が多かったとされています。


  • 水原親憲は勝戦の時は寡黙であまり語らず、苦戦に陥った時に大声で味方の士気を鼓舞してまわったと言われています。


  • 水原親憲は上杉家中の酒宴の時におかしな格好をして舞を踊ったところ、無口な景勝の表情が少し崩れたと言われています。


  • 水原親徳は戦場へ向かう際、世間話をしながら大笑いして進軍したため、沿道の人々は「あれが、今から合戦に向かう武者か」と目を見張ったと言われています。


  • 水原親憲には出陣時に震える癖があり、そしていざ合戦になるとその震えは止まったと伝えられています。そのため、墓石はマラリアに効くとの噂が広まり人々に削られていったと言われています。

まとめ



 いかがでしたか


水原親憲は最後の逸話の話にもありますが、痛快で周りに気を配る非常に優れた指揮官であったと推測されます。


上杉景勝は彼のような優秀な指揮官が居たからこそ、御館の乱、新発田重家の乱を耐え抜き生き残れたのかもしれません。


また、上杉景勝の代において、直江兼続が上杉家の筆頭家臣として有名ですが、その陰には優秀な武将水原親憲という人物が居たことを忘れてはいけません。




今回は上杉景勝を支えた猛将水原親憲についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


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