今回は上杉家の下で大身を果たした須田満親についてです。
須田満親と言われても戦国通の方や、信長の野望というゲームをしている方でなければ聞いた事すらないと思います。
私自身も信長の野望で初めて知りました。
須田満親は信濃北部の国人であったため、真田昌幸や武田信玄とも非常に関わりの深い武将です。
今回は信濃北部において活躍した須田満親についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
須田満親は1526年、信濃国高井郡にある大岩城の城主須田満国の子として生を受けます。
須田氏は室町時代から戦国時代にかけて、須田満国・その子の満親と須田信頼・その子の信正の系統に二分され、対立関係にあったと言われています。
須田満国は大岩郷を、須田信頼は須田郷という領地をそれぞれ支配したと考えられています。
1540年代、信濃国は北信濃を支配する村上義清、信濃守護の小笠原長時、諏訪を支配する諏訪頼重など様々な武将が割拠している状態でした。
しかし1541年、甲斐の武田家の家督を継いだ武田信玄は信濃に目を向け始めます。
武田信玄は信濃の城を次々に落としていき、破竹の勢いで勢力を拡大していったのです。
1542年、諏訪家の諏訪頼重は自害し、1552年には小笠原長時は逃亡しています。
武田信玄の信濃における敵は村上義清のみとなっていました。
小笠原長時が逃亡する前の1551年、堅城と言われていた砥石城は真田幸隆の調略によって武田方に寝返ります。
この時、砥石城に入城していた須田信頼が武田方に寝返る事で、スムーズに城の明け渡しが行われたと言われています。
須田信頼と対立関係にある須田満親は、武田方には寝返らず村上氏に付き従う道を選びます。
しかし1553年、村上義清も武田信玄の猛攻の前に越後に逃走してしまいます。
須田満親も程なくして越後の上杉謙信を頼り、上杉家の家臣となったのです。
その後、須田満親は武田家に奪われた大岩郷奪還のため、上杉謙信に加担します。
1561年の川中島の戦いにも須田満親は参戦しています。
その後、須田満親は一向宗と親しくしていたという経緯から、一向宗とのパイプ役を任されていたようです。
1581年、上杉謙信のの側近の1人であった河田長親も亡くなってしまいます。
越中方面の総指揮官だった河田長親の死は上杉家にとって非常に痛手でした。
越中では加賀の一向宗徒による影響を受け、一向宗が未だに力を持っていました。
そこで、一向宗に理解のある須田満親が新たな総指揮官に任命されたのです。
総指揮官に付いた須田満親は、織田信長の攻撃に耐え、信長の死後秀吉との交渉を行います。
その後、須田満親は松倉城の撤退戦を指揮するなど、上杉家の命運を握っていた人物である事は間違いないと思われます。
1583年、須田満親は越中の魚津城を退去し、今度は北信濃の海津城の城代に任命されます。
この海津城のある北信濃は須田満親にとって故郷であり、非常に重要な拠点の一つでした。
須田満親の海津城に対する思いは並ではなかったはずです。
更に1585年6月には北信濃の地域である4郡(高井・水内・更級・埴科)を任されます。
この時、知行としては12000石余りを任されたと言われています。
これは直江兼続に次ぐ大出世だったと言われています。
同年の1585年、真田昌幸が徳川家康と対立し上杉方に転じた際には、昌幸と交渉を進め、後の真田幸村を人質として預かっています。
そして、徳川家康が真田昌幸を攻めた第一次上田合戦では、上杉景勝に強く救援を求め、上杉方の援軍を指揮したと言われています。
また、1588年には老体の身でありながら上杉景勝と共に上洛を果たしています。
1598年正月、上杉景勝は秀吉の命令により会津転封を命じられます。
これは豊臣秀吉が徳川家康、伊達政宗に対抗するために、上杉景勝を必要としていたためだと言われています。
しかし、この転封に対して須田満親は反対します。
故郷である北信濃の地をもう離れたくはなかったのでしょう。
1598年2月、須田満親は海津城で切腹しその人生を終えました。
享年73。
いかがでしたか
須田満親は武田信玄により故郷を追われますが、後に復帰して大身を果たしています。
個人的には同族の須田信頼と和解し、武田家の下で働いて欲しかったです。
そうすれば、壮年期において信濃の地を追われることは無かったかなと・・・
しかし、それ以上に思うところがあったのかもしれません。
今回は上杉家で大身を果たした須田満親についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~