今回は北条において白の軍団を率いた清水康英についてみていきたいと思います。
清水康英は北条家の五色備えの軍において白色の軍団を率いた武将として有名です。
また秀吉の小田原征伐において下田城に入り、徹底抗戦を行った猛将としても名高いと思います。
更に清水氏は北条家3代当主北条氏康を養育した一族としても有名です。
今回は北条家の中で白の軍団を任され、北条家と関係の深い清水氏当主・清水康英についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
清水康英は1532年、伊豆清水氏二代目当主である清水綱吉の子として産まれます。
清水氏は北条氏康の代に氏康の博役、乳母となった一族で、氏康の代以降で急速に勢力を拡大した一族となります。
清水康英の父清水綱吉の弟に清水吉政という人物が存在します。
この清水吉政は北条氏康の博役となった人物で、幼少時に暗愚といわれ引っ込みがちだった氏康をよく補佐したと言われています。
北条氏康は臆病で慎重な性格であったため、自信を持たせるために数々の褒め言葉を授けたと言われています。
清水吉政は、2007年の大河ドラマ風林火山で常に北条氏康の傍近くで行動し助言する人物として描かれています。
また、清水康英の母または祖母は北条氏康の乳母とされていて、北条家と非常に強固な関係性を築いたと考えられています。
清水康英は1559年に書かれた「小田原役帳」によると、伊豆衆の中で最も多い知行としなる847貫ほどの禄を得ていたようです。
清水康英は伊豆衆を統括し、河越城の北条綱成、玉縄城の北条綱高、栗橋城の富永直勝、下田城の清水康英、平井城の多目元忠を五家老とし、五色備えの体制をなしたと言われています。
清水康英は文官としても優秀で、訴訟の裁決や政策立案を携る評定衆を務めており、北条氏康の参謀的立場でもであったようです。
ちなみに、清水康英の跡継ぎである新七郎は1569年の蒲原城の戦いで討ち死にし、次男である政勝が新たな跡継ぎとなったようです。
清水政勝は1581年には長久保城主に任命され、1587年には上野金山城主をも務めています。
そして、清水康英が猛将として名を馳せた小田原征伐での武勇についてお話させていただきます。
1589年頃、豊臣秀吉と後北条氏の関係が緊迫化してくると、北条氏は領土の西側にある城の韮山城や山中城の修築を行います。
更に、北条家は伊豆半島のほぼ先端に位置する下田という場所に、海の備えとして下田城を築きます。
清水康英はこの下田城の城主に任命され、韮山城に入っていた北条氏規の指南役も務めたとされています。
この時、北条家当主北条氏直は「豊臣秀吉軍は船働歴然ゆえ下田城を設けたのであり、康英は戦上手であるから一切任すのである。他人の差し出口は不要である」と言い放ったとする文書が残っています。
この言が本当なら、清水康英は非常に信頼された武将であった察することが出来ます。
そして1590年、豊臣秀吉は遂に北条家の討伐を開始します。
城将として清水康英、援将として江戸朝忠、吉良氏広、梶原景宗ら総勢2800が配置されました。
しかし、その中で梶原景宗は、豊臣水軍と戦うには陸上交通が不便な下田城では籠城するのは得策ではない主張します。
豊臣水軍が下田城を通り過ぎ小田原城沖に出てしまっては、防衛拠点としての意味がないとして梶原景宗の水軍は、小田原へ移動してしまったのです。
このため、下田城を守る船と兵数は大幅に減少してしまいます。
そして、2月27日に清水港に終結した豊臣水軍は、総勢20000という大軍で攻撃を開始します。
上陸した豊臣方は陸路にて下田城を目指して進軍すると、北条勢は伊豆ヶ崎岩殿で抵抗し、岩殿寺砦を死守しました。
また、伊豆衆の一人である小関加兵衛と村田久兵衛の活躍もあり、豊臣方を一時撤退させることに成功しています。
しかし、多勢に無勢。その後、豊臣軍は遂に下田城の到達し海上からの包囲を開始します。
更に敵軍は軍船から大砲を降ろし、下田城を見下ろす高台に配備して威嚇攻撃を行います。
上陸した豊臣方は下田城に強い攻勢をかけてきたのです。
ところが、北条家の中でも名将として名高い清水康英が指揮する下田城は難攻不落でした。
清水英吉や伊豆衆をはじめとした精鋭部隊は、僅か600ほどの兵でしたが頑強に抵抗したのです。
抵抗を続ける中、3月29日には山中城が落城します。
そして、4月2日には箱根に滞在する豊臣方が小田原城へ押し寄せたため、豊臣水軍も急ぎ小田原城に向かうこととなりました。
長宗我部元親の2500だけが下田城の包囲に残され、残りは小田原城沖に展開したのです。
これは梶原景宗が想定した通りでした。
残った長宗我部元親は海上から大砲で攻撃し、北条水軍の船の多くが破壊されてしまいます。
徹底抗戦を続ける清水康英でしたが、勝機を見つけることが難しくなっていました。
そして4月20日、豊臣秀吉の使者として脇坂安治と安国寺恵瓊が下田城へ矢文を放ち、清水康英に降伏勧告を送ったのです。
清水康英は残された城兵の助命を約束させ降伏し、城を明け渡すことを決意しました。
籠城は実に50日余りに及んだと言われています。
この戦いの後、清水康英は河津林際寺に退去し、しばらくして菩提寺である三養院に隠棲したと言われています。
そして、翌年の1591年6月亡くなりました。
享年60。
いかがでしたか
清水康英は小田原征伐で武将としての高い指揮能力を内外にに示しています。
また、北条氏直の言からわかるように、北条氏康以降の当主に絶対的な信頼を寄せられていたと考えられます。
また清水氏は、北条一族との関係性を高めて出世した一族でした。
清水康英は優秀で且つチャンスがあれば誰でも出世できるという代表例だと私は感じました。
今回は白の軍団を率いて北条家に絶大的に信頼された武将清水康英についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~