今回は恩賞問題に憤り、独立を目指して立ち上がった武将新発田重家についてみていきたいと思います。
新発田重家という人物は上杉景勝期の上杉家においてとりわけ重要な武将の一人となります。
何故かというと、それは新発田重家によって一歩間違えれば上杉景勝の首が飛んでいたかもしれないからです。
新発田重家の乱と言われる謀反を起こした新発田重家は、上杉景勝に死を覚悟させたとも言われています。
上杉家存亡の危機でもあったわけです。
それでは上杉景勝にとって悪魔ともいえる武将新発田重家についてみていくことにしましょう。
ちなみに、上図は明智光秀の叔父の明智光安で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
新発田重家は1547年、揚北衆佐々木党の一人である新発田綱貞の子として誕生します。
佐々木氏というのは、簡単に言うと源平合戦の時に源頼朝に従って活躍した家柄です。
この佐々木氏が現在の新潟県北部に土着して新発田を名乗ったのが新発田重家の祖先ということになります。
新発田重家は当初五十公野家を継いで五十公野治長(いじみのはるなが)と称していました。
新発田重家には新発田長敦という兄が存在し、次男である重家は他家の養子となっていたのです。
この兄新発田長敦は非常に優秀な武将と言われていて、上杉謙信の代に七手組大将の一人に選出されています。
七手組大将の大将の他のメンバーは柿崎景家、本庄繁長、加地春綱、竹俣清綱、色部勝長、中条藤資であり、新発田長敦はこれらの有名な武将達と並び称されていたようです。
新発田重家はこの優秀な兄とともに各地を転戦することとなるのです。
新発田重家という人物が武将として最初に登場するのは、1561年上杉謙信の関東出兵による小田原城攻城戦になります。
この時、武田信玄は川中島周辺に出兵し、背後を脅かされた上杉謙信は小田原城攻撃を中止し撤退します。
新発田重家はこの時殿(しんがり)を務め、敵味方に広く称賛されたと言われています。
そして、同年に起きた第4次川中島の戦いにおいても出陣し、兄新発田長敦とともに大活躍します。
新発田勢は穴山信君隊や諸角虎定隊と激戦を繰り広げ、諸角虎定を討ち取ることに成功しています。
ちなみに、諸角虎定は武田信玄の弟である武田信繁の傳役を務めた人物で、武田家の古くからの重臣です。
新発田勢の活躍には上杉謙信も目を見張るものがあったと思われます。
そして1578年、突然の上杉謙信の死により新発田家は運命の分かれ道に立たされることになるのです。
1578年3月、上杉謙信は脳卒中のため急遽亡くなります。
上杉謙信は跡継ぎを生前に決めていなかったため、二人の養子の間で跡目争いが勃発します。
上田長尾氏出身の上杉景勝と小田原北条氏から養子に入った上杉景虎が対立し、越後の諸将が両派に分かれて戦う内乱となってしまったのです(御館の乱)。
この乱においては、兄である新発田長敦や三条という場所に所領を持つ妹婿の長沢道如斎と共に、新発田重家は時勢を見計らっていました。
しかし、新発田重家は柏崎の安田城主安田顕元の勧誘で兄と共に上杉景勝方につくこととしたのです。
その後、新発田重家らは上杉景虎方についた同族の加地秀綱を降伏させ、三条城の神余親綱の攻撃を行います。
更に、新発田勢はこの内乱に介入しようとする蘆名盛氏と伊達輝宗の兵を退けるなど大いに活躍しました。
兄である新発田長敦は、斎藤朝信と共に上杉景虎救援のため出兵してきた武田勝頼との和睦を成立させる活躍をみせます。
1579年3月、新発田勢のこれらの活躍もあり上杉景勝勢の一斉攻撃で上杉景虎方の御館は落城し、景虎は敗走中に味方であった堀江宗親の寝返りで自刃します。
新発田勢はこの乱に際して自他ともに認める大活躍をみせたのです。
兄である新発田長敦はこの乱での活躍を自負していました。
そのため、攻撃中の三条城主神余親綱を討った暁には、上杉景勝が三条の地を自分か妹婿の長沢道如斎に与えてくれるものだと確信していました。
上杉景勝はこの論功行賞で、この新発田勢の活躍のことは理解していたようで、新発田重家などを味方に引き入れた安田顕元も景勝に恩賞の件を言上していました。
安田顕元は「新発田重家の合戦での獅子奮迅の働きは類を見ないため、是非一城を与えてほしい」と伝え、上杉景勝もこの発言に対して異論は無く、安田顕元の案に賛成を示します。
ところが、奉行職の山崎秀仙と直江信綱らは、一門や景勝の側近たちである上田衆の恩賞を厚くするべきとして安田顕元の意向を無視してしまったのです。
そして、この論功行賞の最中の1580年、病に侵されていた新発田長敦は失意の内に没してしまいます。
新発田長敦には跡継ぎがいなかったため、新発田重家が新発田家の当主として後をを継ぎ、五十公野氏は妹婿の長沢道如斎が継ぐことになって五十公野信宗と名乗りることとなりました。
この間、安田顕元は上杉景勝と新発田勝家らの仲裁に奔走し、景勝に恩賞を出すように再三言上したようですが、受け入れられることはありませんでした。
その結果、あれだけ御館の乱で活躍した新発田重家の努力は無に帰し、1580年6月、責任を感じた安田顕元は切腹して果ててしまったのです。
この時点で新発田重家の上杉景勝への疑念は決定的となっていたでしょう。
しかしながら、疑いを持ちつつも新発田重家は仕事を続け、上杉景虎没後も上杉景虎に味方していた三条城主の神余親綱の鎮圧を行っています。
1580年7月、神余親綱は城内の謀反で自刃に追い込まれ三条城は落城し、御館の乱は終わりを迎えます。
ここに御館の乱は終結したのです。
そして、御館の乱終結後、恩賞問題は現実のものとなってしまいました。
三条城主の神余親綱の鎮圧後、三条城には上田衆出身の甘粕景持が入ることとなり、かえって妹婿の五十公野信宗が持っていた三条の地の利権を失う結果となってしまったのです。
新発田重家には本領の安堵だけが与えられました。
この処遇に耐え切れず、新発田重家、五十公野信宗らは上杉景勝の居城である春日山城に暇乞いをし、新発田城、五十公野城にそれぞれ帰ったのです。
ここで、この新発田重家の不満に目をつけた人物がいました。
それは天下取りを目前に控えていた織田信長でした。
信長は会津の蘆名盛隆を通じて新発田重家に接触し、謀反を誘ったのです。
更に、蘆名盛隆は奥州の伊達輝宗を味方に引き入れ、新発田重家を支援する体制を確立させることに成功します。
そして1581年6月16日、新発田重家は一門衆や同族である加地秀綱らの加地衆、上杉景虎を支持していた豪族などを味方に引き入れて新潟津を奪取します。
この新潟津に新潟城を築城すると新発田重家は独立を宣言し、反上杉景勝の姿勢を明確化させ謀反を起こしたのです。
ここで新発田重家の乱を細かく説明するのは無粋なので、わかりやすくこの乱の転換期を三つに分けて説明していきたいと思います。
それではこの三つの転換期についてそれぞれみていくことにしましょう。
当初独立を宣言した新発田重家は、周辺諸国からの支援もあり優勢に事を構えます。
しかし、1582年6月2日織田信長が本能寺で倒れると状況は大きく変化します。
上杉景勝は南と西からの織田家の脅威が無くなったことで、ようやく新発田重家鎮圧の兵を出すことが出来たのです。
1583年8月、上杉景勝は4月に続いて出陣し新発田城の攻撃を開始します。
しかし、新発田城は頑強に抵抗し、無理な城攻めを躊躇した上杉景勝は撤退を開始してしまいます。
そして9月25日、上杉景勝は陣払いを命じて退却します。
ところが、退却軍が放生橋という湿地帯に差し掛かった頃、一転して豪雨となり立ち往生を余儀なくされてしまったのです。
この事態を好機ととらえた新発田重家は、新発田城を討って出陣し約3000騎をもって上杉軍に襲い掛かったのです。
この戦いで、進退の自由を奪われ上杉軍は大混乱に陥り、殿を務めた水原満家は討ち死にしてしまいます。
上杉景勝本陣も一時危うくなりますが、藤田信吉の奮戦などもあり事なきを得たと言われています。
この結果、奇襲を受けた上杉方は水原満家の居城水原城を失い、新発田重家の大勝利となったのです(放生橋の戦い)。
1年後の1584年8月、上杉景勝は放生橋の合戦で失っていた水原城奪還を奪還するためのため、伏兵約8000の兵で水原城を攻撃します。
この攻撃に、新発田方の水原城を預かっていた細越将監は頑強に抵抗しますが、数に押され討ち取られてしまいます。
水原城の攻撃を知った新発田重家は救援を送ります。
しかし、上杉景勝本隊は伏兵8000とは別に迂回していて、蘆名家への補給路でもある赤谷城をターゲットに定めます。
赤谷城を攻撃するにあたり、上杉景勝は重要拠点となる八幡砦の奪取を目論みます。
この動きに新発田重家は反応し、手勢3000の兵を出撃させます。
新発田重家は上杉本隊を八幡にて迎撃することとしたのです。
この八幡での戦いは、銃撃戦の後に乱戦となり大戦となってしまいました(八幡表の戦い)。
上杉景勝方はこの迎撃に対し次第に劣勢となり、直江兼続の陣が新発田重家の攻勢を受けて崩壊し、大損害を被ってしまいます。
しかし、新発田勢もその後挟撃される状態になり、苦戦を強いられ八幡砦を落とされてしまいます。
大損害を被った上杉景勝は、これ以上の攻撃は早計と判断し各地に城砦を築いて撤退します。
この撤退により、水原城は程なくして新発田勢の手に戻り、この戦いは引き分けに終わったのです。
ちなみに、この一連の戦いで重要な城となった水原城は、後に水原親憲が後を継ぎ城主に迎えられます。
そして、水原城に入った水原親憲は、この新発田重家の乱終結に貢献することとなるのです。
1584年10月、新発田重家を支援していた蘆名盛隆が家臣に殺害され、1585年5月に伊達家の家督を継いだ伊達政宗が蘆名家と開戦すると状況が変化し始めます。
南東方面からの支援を失った新発田重家は次第に窮地に立たされてしまうのです。
1585年6月、上杉景勝は再び水原城を攻めましたが、城将の梅津宗三らが頑強に抵抗したため城は容易には落ちませんでした。
しかし1585年9月、上杉景勝は梅津宗三の身内の梅津伝兵衛を調略し、水原城を乗っ取ることに成功したのです。
上杉景勝は遂に水原城を落とすことが出来たのです。
そして1585年11月、藤田信吉は知り合いの町人を調略して新潟城の攻略にかかります。
藤田信吉は商船を装った軍船を用意して新潟津を奇襲させたのです。
これに驚いた新発田勢は大混乱となり、新潟城、沼垂城は落城して上杉方のものとなってしまいました。
この新潟城と沼垂城は新発田勢にとっては非常に重要な拠点だったようで、港の利権を失ったこととなり、物資の大量輸送が困難となってしまったのです。
その結果、新発田重家は経済圏を大幅に縮小させることとなり、四面楚歌の状態で上杉景勝と対峙せざるを得なくなったのです。
1587年6月、豊臣秀吉の後ろ盾を得た上杉景勝は勝利を確信し、新発田重家に和睦の提案を行います。
しかし、新発田重家は「此の期に及んで今更おめおめ降参し生き永らえても死に勝る恥である、お請け申さず死は覚悟」といって和睦を断ったと言われています。
1587年9月、豊臣秀吉から新発田重家討伐の許可を得た上杉景勝は、遂にこの乱を終結させるべく総攻撃を開始します。
10月13日、藤田信吉らは五十公野城を陥落させ、娘婿の五十公野信宗は討ち死にします。
そして10月25日、上杉勢に新発田城を包囲された新発田重家は、最期の一戦に備えて城内を清めさせ最後の酒宴を開くことにしました。
新発田重家はこの酒宴の最中、敵の乱入を聞くや約700騎を率いて最後の突撃を行ったと言われています。
新発田重家は、突撃を繰り返し多くの敵を討ち取ります。
しかし、もはやここまでと悟った新発田重家は、親類である色部長真の陣に駆け入り、「親戚のよしみを以って、我が首を与えるぞ。誰かある。首を取れ」と叫んで腹を掻き切ったと言われています。
己の信念を貫いた見事な最期でした。
享年41。
いかがでしたか。
今回は上杉家の存亡の未来を左右した新発田重家についてお話させていただきました。
新発田重家は新たな上杉家の体制に絶望し、反乱を企てました。
私の見解では、これは謙信と景勝の器量の差だと言わざるを得ません。
上杉景勝は自分の側近を中心に中央集権の支配を勧めましたが、謙信は全くそのようなことはせずに上杉家をまとめ上げていました。
新発田重家は謙信のカリスマ性を謙信の死後に確信したことでしょう。
正直、上杉景勝の戦略もわからなくはないですが、信頼関係を築くという意味では真逆の行動と言わざるを得ないかなと・・・。
新発田重家は義の精神を大切にしない景勝に幻滅し、亡くなった安田顕元や一族の未来のために動くしかなかったのかなと。
今回は上杉家で最大の謀反を起こした武将新発田重家についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~