• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 

 2020年大河ドラマで、明智光秀の幼少期を共にしたであろう斎藤義龍について今回はみていきたいと思います。


斎藤義龍と言われても「知らない」と思う方が多いかもしれません。


斎藤義龍は父である斎藤道三を討ち果たし、信長と敵対した人物です。


親殺しと言われてしまっても仕方ないですが、当時の美濃(現岐阜県の一部)の状況を考えると正しい判断だったのかもしれません。


また織田信長が美濃を攻略するのは、信長が家督を継いでから15年ほど後になります。


これは斎藤義龍の器量が高く、勢力を伸ばせなかったためでもありました。


斎藤道三の息子である斎藤義龍とはどのような人物なのでしょうか。


少しみていくことにしましょう。

疑惑

 斎藤義龍は1527年、斎藤道三と深芳野(みよしの)という女性の間に産まれます。


斎藤道三は当時主君であった土岐頼芸(ときよりのり)から非常に信頼されていました。


そこで斎藤道三と更なる繋がりを持つために、自分の妾であった女性の深芳野を斎藤道三に与えることにしたと言われています。


そして、程なくして義龍が生まれたため斎藤義龍は土岐頼芸の息子かもしれないと噂が流れていたようです。


斎藤義龍はそのことで小さな時から悩んでいたのかもしれません。


1542年、斎藤道三は美濃を土岐頼芸から奪い取る事件が起こります。


その後は斎藤道三が美濃の国を治めることになりました。


しかし、斎藤道三は主君から国を奪い取ったため旧土岐家臣団の統制が取れなかったと言われています。。


そこで道三は1554年、息子である斎藤義龍に家督を譲って隠居します。


家督を斎藤義龍に譲ったものの斎藤道三の威厳は全く衰えることはありませんでした。


更に斎藤義龍の忌み嫌っていた斎藤道三は、他の息子である孫四郎や喜平次を可愛がってしまいます。


小さな時から生まれに疑問を抱いていて、危機感を募らせていた斎藤義龍は遂に父である斎藤道三と対決することになるんです。

明智光秀が放浪の身に・・・

 1555年、危機感を抱いた斎藤義龍は動きます。


斎藤義龍は病気を偽って弟たちである孫四郎と喜平次を呼び出すことにしました。


そこを義龍と共謀していた家臣の一人である日根野弘就(ひねのひろなり)が急襲する手筈になっていました。


予期せぬ事態に孫四郎と喜平次は全く抵抗できずに殺害されてしまいます。


斎藤道三もこの事態に驚愕して大桑城に逃げ込みます。


この時期は冬に差し掛かっていたため、雪が解ける来年春二人は対峙することになりました。


翌1556年4月、二人は長良川(ながらがわ)を挟んで戦闘が開始されます。


斎藤義龍は17500余、斎藤道三は2700余ほどの兵力だったと言われています。


西美濃の重臣(当主支える有力者)たちをはじめ、旧土岐家臣団を取り込んだ斎藤義龍は圧倒的な兵力差で斎藤道三を追い詰めます。


織田信長は、斎藤道三の娘を娶っていたことにより斎藤道三側で戦う予定でした。


しかし本戦には間に合わず、斎藤道三は討ち取られてしまいます。


この戦い以降、斎藤義龍と織田信長は絶縁して戦い始めることになります。


斎藤義龍は父親を倒し、正式に当主となったのです。


この時斎藤道三には縁戚関係にある明智家が加担していました。


明智家の御曹司である明智光秀もこの争いに巻き込まれ、敗れて越前(現福井県)に逃れ放浪することになってしまうんです。

領国経営そして最期・・・

 斎藤道三を討ち果たした後、斎藤義龍は荒れ果てていた領国経営に乗り出します。


長年の所領問題を整理したり、武田信玄も用いた家臣達による合議制を行い統制を図ります。


また斎藤義龍は父親を殺してしまったことから悔いがあったのかもしれません。


義龍は正統な当主と認められるため、足利家の有力一族である一色性を名乗ることにしました。


当時織田信長は、南東に今川家、北東に斎藤家があったため勢力を伸ばすことが出来ませんでした。


信長ほど器量があれば強大な今川家は置いといて斎藤家を飲み込むことも可能であったはずです。


しかし、信長は1560年今川義元の死、1561年の斎藤義龍の病死まで勢力を拡大できなかったんです。


先に言ってしまいましたが、当主になって6年後1561年病死してしまいました。


この死によって織田信長は美濃攻略を加速していく事になるんです。

まとめ

 いかがでしたか


個人的に斎藤義龍は少しかわいそうな生い立ちをしていると思います。


しかし、その疑い深さや父の反面教師を演じることで当主として認められていったのかもしれません。


斎藤義龍亡き後、斎藤家は息子である斎藤龍興が当主になります。


斎藤龍興は酒に溺れ、一部の側近だけを重用したため人心が離れ信長の侵攻を許してしまいます。


合議制をしき、家臣の意見に耳を傾ける斎藤義龍と違い、器量に乏しかったと思われます。


斎藤義龍がもっと長く生きていたら信長の天下は来なかったかもしれません。



今回は斎藤道三の息子で織田信長のライバルであった斎藤義龍についてのお話でした。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


コメント一覧

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