• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 
 
 今回は「越後の鍾馗」といわれた斎藤朝信についてみていきたいと思います。


斎藤朝信と言われても大半の方はご存じないかと思います。


しかし、上杉家の中でも文武に秀でた武将として畏怖されていたようです。


鍾馗というのは、中国の神の一つで魔除けや学業成就に効果があると言われているようです。


これは、斎藤朝信が魔除けを行っていると思えるほどの優れた武将であった証だと思います。


今回は武勇の誉れ高い斎藤朝信についてみていきましょう。





ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~



謙信からの絶大な信頼

 
 
 斎藤朝信は1527年、現在の新潟県刈羽村にある赤田城の城主である斎藤定信の子として産まれました。


つまり、越後の国人領主の一人として謙信に重用され活躍したと考えられています。


斎藤朝信が最初に登場するのは1560年頃になります。




1559年、斎藤朝信は上杉家の各部隊長にあたる「七手組の大将」として記録されています。


七手組の大将は、長尾藤景・柿崎景家北条高広直江景綱本庄実乃中条藤資、そして斎藤朝信になります。


この面々を見ていただけるとわかりますが、上杉家のオールスターと言える人物が並べられています。


斎藤朝信が上杉家の中でどれだけ重要なポストに居たかわかると思います。




1561年、上杉謙信は関東の北条家を討伐するため関東に出兵します。


その時、上杉謙信は鶴ケ丘八幡宮で正式に上杉憲政から関東管領職を譲られます。


その儀式の際、斎藤朝信は「太刀持ち」を任されます。


謙信が絶大な信頼していなければ出来ない仕事です。




更に1561年の川中島の戦いでは、武田信玄に扇動されて動き出しそうな一向一揆勢に対応するため、越中に派遣されています。


この働きのおかげで、上杉謙信は安心して川中島の戦いに集中することが出来たのです。


謙信は強敵が相手の時や重要な戦局において、必ず斎藤朝信を指名したと言われています。


これらの事から、斎藤朝信は魔除けの如く上杉家の憂いを振り払ってくれる存在だったのかもしれませんね。

山本勘助、そして晏子が如く!

山本勘助

 
 少し話は変わりますが、斎藤朝信には有名な逸話が一つあります。


それは謙信が上洛をするにあたって、隣国の武田信玄と交渉した時の話です。


謙信は上洛の憂いを取り除くために、斎藤朝信に信玄との交渉を任せたのです。


斎藤朝信は才智に長け雄弁であったため、お釈迦様の弟子の一人である富楼那になぞらえ「富楼那の斎藤」とも言われていました。


斎藤朝信は鍾馗、富楼那といった「神やお釈迦様の弟子に例えられるほど優秀な人物」であったということです。


そして、この斎藤朝信の噂は武田信玄の耳にも届いていたようです。


実際に斎藤朝信と対面をした武田信玄は、彼の雄弁さや器量を量るために少し意地の悪い質問をしたそうです。




信玄は「君は非常に小柄で、隻眼なようだね。知行はどれくらいだい」と質問をし、斎藤朝信は「600貫ほど頂いております」と答えたそうです。


信玄はその答えに、「それは貰いすぎではないか」と言って笑い飛ばしたと言われています。


しかし、斎藤朝信は「越後ではそのようなことで差別はせず、武田家でも左足が不自由で右眼も見えない山本勘助と方がいるではないですか。ですから全く恥じてはいません」と毅然とした態度で述べたと伝わっています。


この問いを聞いた信玄は「まるで晏子(あんし)のようだな」と褒め称えたそうです。


晏子とは、中国の春秋時代の斉国の名宰相の事を指していて、信玄はその才に驚嘆したと言われています。


そして、信玄は斎藤朝信に引き出物を与え、謙信の上洛の邪魔はしないと約束したと伝えられています。


信濃方面の安全を確保した謙信は、無事に上洛を果たすことができたのです。

上杉家の重鎮として

 
 
 話を元に戻しますが、斎藤朝信は川中島の戦いの後各地を転戦します。


1564年には下野(現栃木県)国の佐野昌綱と戦い、武功を上げたと言われています。


ちなみに1575年の上杉軍役帳には、217名の軍役を課せられていたと記されています。


上杉謙信の四天王の一人である直江景綱が305人と言われているので、斎藤朝信の軍事権がどれだけ高かったかわかると思います。


この1575年以降、対外的には織田信長が台頭してきます。


長篠の戦いで武田勝頼を圧倒した織田信長は、北陸方面に進出し謙信の領土を脅かしていきます。


そこで北陸方面の魚津城に入り、迎え撃ったのが斎藤朝信だと言われています(1580年頃)。




そして1578年、突如上杉家で大事件が起きてしまいます。


上杉謙信が急死してしまうのです。


謙信は生前に家督の跡継ぎを決めていなかったため、養子である上杉景勝上杉景虎の間で家督争いが起こってしまったのです。


この時、斎藤朝信は上杉景勝を支持し、景勝側の城である与板城の救援に向かっています。


この状況を危惧した斎藤朝信は、上杉景虎を支援する武田勝頼との交渉を考え始めます。


武田信玄との逸話でもわかるように、斎藤朝信は雄弁で才知に溢れています。


斎藤朝信にとって交渉はお手の物でした。


斎藤朝信は、経済的に困窮しつつあった武田勝頼に金銭の授受を約束し、領土の一部の割譲も提案したのです。


その見返りとして、武田家には中立的な立場でいる事を約束させました。


武田勝頼はこの条件を受け入れて、上杉景勝は危機を逃れる事に成功したのです。


この後、武田家の助力もあり形勢は逆転します。


上杉景勝が内乱を制し、家督を継承したのです。


1580年、上杉景勝はこの内乱での斎藤朝信の働きを重く見たようで、斎藤朝信に多くの領地を与えたと言われています。


上杉景勝は、上杉謙信に重用された斎藤朝信に絶大な信頼を寄せていたのかもしれませんね。




1582年、本能寺の変で織田信長が急死します。


信長が亡くなり、しばらくした後に斎藤朝信は隠居したと言われています。


本能寺の変後、織田家の脅威は急速に衰えていきました。


斎藤朝信はこの情勢を見届けてから隠居を開始したのかもしれません。


そして1592年、斎藤朝信は亡くなります。


享年66。

まとめ

 

 いかがでしたか


斎藤朝信は非常に重要な局面において登場し、様々な仕事を請け負っています。


この働きは、まるで越後の憂いを取り払ってくれているかのようです。


まさに「越後の鍾馗」ですね。


知略に長け、武勇にも長けた最強の武士の一人だと私は感じました。


今回は越後の鍾馗と言われた武将・斎藤朝信についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


コメント一覧

返信2019年12月17日 5:00 PM

上杉景虎 北条三郎と呼ばれ上杉謙信に愛された男 北条氏康と上杉謙信の息子である上杉景虎とは・・・ – うたみのブログ25/

[…]   1578年、織田信長と対陣中の上杉謙信は突如亡くなります。トイレで倒れて亡くなってしまったのです。上杉謙信は亡くなるつもりなどは全くなく、後継者を指名せずに亡くなってしまいました。そこで上杉謙信の二人の養子が候補に挙がります。それは今回お話させていただいている上杉景虎と、謙信の姉の子である上杉景勝です。上杉景勝に味方したのは後に愛の兜で有名になる直江兼続や謙信の側近、旗本などが中心でした。一方で上杉景虎に味方したのは、前関東管領の上杉憲政や上杉家を2度裏切るも有能であったため許された北条(きたじょう)高広、更に実家の北条家や伊達家などでした。この家督争いは、上杉景虎が本拠とした館の名前を取って御館の乱と言われています。最初に動いたのは上杉景勝でした。景勝は上杉家の本拠である春日山城の本丸を占拠して、謙信の莫大な遺産を接収します。後手に回ってしまった上杉景虎は実家である北条家に救援を要請します。しかし、当時の北条家は関東の常盤(現茨城県)の佐竹義重や下野(現栃木県)の宇都宮広綱と対陣中で援軍を送る余裕がありませんでした。そこで同盟中であった武田家の当主武田勝頼に援軍を要請します。更に味方についていた北条高広、高広の息子である北条景広は上野(現群馬県)から越後の入り口にあたる三国峠を越えて上杉景虎を支援しようとしていました。このような情勢下において、大きな後ろ盾のある上杉景虎は優勢になります。ところが、北条家にとって寝耳に水の出来事が起こります。武田家の武田勝頼は上杉景虎を支援せず、中立の姿勢を見せたのです。この背景にはお金と所領が絡んでいました。春日山城の莫大な遺産を得た上杉景勝は武田勝頼を金銭で買収し、上野の沼田領も割譲すると言ってきたのです。武田勝頼は長篠の戦い以降、求心力を失っていた事に加えて、甲斐から取れる甲州金も少なくなっていました。武田勝頼は経済的な面だけでも有利に立ちたいと思っていたのでしょう。1578年6月、武田家方の武田信豊、跡部勝資、上杉景勝方の斎藤朝信、新発田長敦らによって和睦の交渉が行われました。この事態を受けて上杉景虎方も上杉景勝と和睦して一時停戦をします。しかし1578年8月、徳川家康がこの隙をついて武田領内にある駿河(静岡県東部)の田中城を攻撃してきたのです。武田勝頼はこの援軍のため僅かな兵を残して撤退してしまいました。武田家の仲介の無くなった上杉両陣営では簡単に和睦は破綻し、再び内乱が起こってしまうのです。1578年9月、北条家の北条氏照、北条氏邦がようやく三国峠を越えて越後にいる上杉景虎の支援に向かっていました。しかし、上杉景勝は越後の入り口に位置する坂戸城を必死に守り続けます。そして冬を迎えてしまうのです。当時の越後の冬は非常に厳しく、北条家は撤退してしまいました。武田家、北条家両家の支援を失った上杉景虎は孤立無援となってしまったのです。翌年、更に状況は悪化し上杉景虎は窮地に陥ります。1579年3月17日、前関東管領の上杉憲政は上杉景虎の息子である道満丸を連れて和睦の交渉に出向きます。しかし、その道中で直江兼続の家臣に上杉憲政、道満丸は殺害されてしまいました。直江兼続は愛を掲げながらやることがひどすぎると思ってしまう瞬間ですね・・・。この異常事態に上杉景虎は居城の御館に火を放ち、北条家の小田原城に向かうこととなりました。3月24日、上杉景虎の味方であった堀江宗親は劣勢であった景虎を裏切り、停泊中の景虎を自害に追い込んでしまいます。上杉景虎は、死を悟り上杉景勝の姉である清円院とともに自害して生涯を閉じました。享年26。ちなみに、この武田勝頼の裏切りに北条氏政は怒り、同盟を再度破棄しています。このことが後に武田家滅亡の大きな一因になってしまったのです。 […]

返信2019年12月17日 5:31 PM

北条高広 謙信を二度も裏切って許された男 謙信・信玄・氏康の間を渡り歩いた北条高広とは・・・ – うたみのブログ25/

[…]   1559年には柿崎景家、斎藤朝信らとともに政務奉行を行っていたようで、謀反後も要職について上杉家を支えていきます。1561年の関東出兵では、息子である北条景広や斎藤朝信らと […]

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