• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 

 2020年の大河ドラマでは明智光秀の幼少期が語れると思いますが、その時の最重要人物にあたるのが斎藤道三だと思います。


斎藤道三と言えば下克上の典型的な人物で、恐ろしい人物であると思う人が多いと思います。


それは概ね正解ですが、実際どのような人生を歩んできたかを知る人は少ないと思います。


光秀の幼少期に最も影響を受けた一人が美濃のマムシである斎藤道三だといえるでしょう。


明智光秀の記事のところでも書かせていただきましたが、明智光秀は斎藤道三の味方をしてしまったために10年ほど苦難の道を歩むころになります。


斎藤道三とはどのような人物で、どれほど重要な人物であるかを少しみていきたいと思います。

僧侶、油商人、そして武士になる

 斎藤道三の出生から出世までは色々な説があります。


これまでは斎藤道三は1代でのし上がったと言われていましたが、今では親子2代でのし上がったという説が有力になりつつあります。


しかしここでは通説で説明していきます。


斎藤道三は京都盆地西部の西岡という場所で生まれたと言われています。


父親は武士であったようですが廃業していて、道三は11歳のころ京都妙覚寺で出家して僧侶になったと言われています。


そしてしばらくしたのち僧侶を辞めて、油売り屋の娘と結婚しました。


結婚後は山崎屋という油商人になったと言われています。


その後、油売りの仕事ではパフォーマンスなどを駆使して一目置かれる商人になっていったようです。


ある時、油を売っているところを武士に見られ「その技術を武芸での鍛錬に使えば凄い武士になるのに、もったいない」というような事を言われたそうです。


その言葉に感化された道三は、土岐家の小守護代である長井長弘という武将の家臣になることに成功しました。


長井家の家臣になった道三は、長井家の西村氏の家名をついで西村勘九郎と名乗ったと言われています。

前代未聞の出生街道 出世のためなら・・

 土岐家の長井家の家臣になった道三は武芸と智謀を用いて次第に頭角を現していきます。


そして美濃国(現岐阜県)の当主の次男である土岐頼芸に信頼されていったと言われています。


土岐家では土岐頼芸の父親である土岐政房が、長男である土岐頼武ではなく土岐頼芸に当主の座を譲ろうとしたそうです。


このことが原因となり兄弟で争いが出来てしまい、戦になってしまいます(1517年の出来事)。


斎藤道三は土岐頼芸に味方をしましたが、最初は敗れてしまいます。


しばらくは兄である土岐頼武が当主につきましたが、1527年、道三の協力もあり頼武を越前(現福井県)に追放することに成功して、土岐頼芸が当主につくことになりました。


このことで更に信頼を得た道三ですが、更なる出世をするには自分を取り立ててくれた長井長弘が邪魔であることに気づきます。


1530年ごろ、長井長弘は職務の怠慢や土岐頼武に通じているということなどを理由に道三に殺されてしまいます。


「出世のためなら何でもやる」それが道三のやり方なんです。


その後1538年、更に上の上司にあたる美濃国守護代である斎藤利良が病死するとその名跡を継ぎ斎藤利政と名乗るようになりました。


この時から道三は斎藤という姓を名乗り始めたと言われています。

美濃国を乗っ取り支配者に

 1541年、遂に道三は国盗りに動き始めます。


土岐頼芸の弟である土岐頼満が道三に毒殺されたことが原因で、土岐頼芸と対立し始めます。


一時は道三も劣勢でしたが、1542年土岐頼芸を尾張(現愛知県の一部)追放にすることに成功します。


この時をもって美濃国の事実上のトップになったと言われています。


しかし、頼芸は尾張の織田信秀に救援を求めます。


ちなみにこの織田信秀という人物は織田信長の父親にあたる人物です。


更に越前に逃れていた土岐頼武の息子である土岐頼純が、越前の国主である朝倉孝景に救援を求めたことで越前、尾張2国から攻撃をされることになってしまいます。


流石に2国に攻められた道三は窮地に追い込まれます。


1547年、織田信秀は満を持して道三の居城である稲葉山城を大規模に攻撃しました。


しかし、戦上手である道三は籠城(城に立てこもって戦うこと)して逆に織田軍を壊滅寸前まで追い込むことに成功します。


道三も勝ちはしましたが劣勢であることに変わりはなく、織田信秀も多大な犠牲を強いられため二人は歩み寄りはじめます。。


1548年、道三の娘である帰蝶(濃姫)を織田信秀の息子である織田信長に嫁がせることで和睦を成立させることができました。


和睦を成立させた道三は後援が無くなった土岐頼芸を少しずつ追い詰めていきます。


1552年には再び土岐頼芸を尾張に追放して美濃国を平定し、名実ともにトップに返り咲くことに成功しました。。



ちなみに1546年土岐頼純と和議を結んで、頼純を守護として迎えていました。


しかし1547年、突如土岐頼純が24歳という若さで急死します。


これは道三の手にかかって亡くなったと言われています。


「成り上がるためには何でもする」この考えはやがてブーメランとなって自分に返ってくることになるんですが・・・

やりすぎた代償

 1554年、道三は家督を息子の斎藤義龍に譲り、隠居したようです。


この隠居した時に剃髪し入道して道三と名を改めました。


これまで道三と呼んでいましたが、紛らわしいためこの1554年以降の名前を一律で用いていました。(笑)


以前明智光安の記事でも書かせていただきましたが、道三は長男の義龍よりも弟たちである孫四郎や喜平次を可愛がっていました。


斎藤義龍はその事態を憂いて1555年11月、病を装い孫四郎や喜平次を呼び寄せて暗殺してしまいます。


この事態にびっくりした道三は雪が解けた翌年1556年義龍と決戦に挑みます。


しかし旧土岐家の家臣たちを取り込んだ義龍は17500人と言われる兵を集め、道三率いる2500人の兵では全く太刀打ちできませんでした。


この時尾張で家督を継いでいた織田信長が娘婿という立場から救援に向かいましたが、結局間に合わず道三は討ち死にしてしまいました。


当初道三は義龍の事を「無能」と思っていたようですが、最期の戦いの時に義龍の評価を改めて後悔したと言われています。


土岐家の家臣たちがいかに道三を憎んでいたかわかると思います。


主家であった土岐家をないがしろにした大きな代償となったのです。

まとめ

 いかがでしたか


恐らく斎藤道三はイメージ通りの人物であったと思います。


ただ信長との関係性、その背景を少しわかっていただけたかと思います。


道三は娘の帰蝶を信長に嫁がせた後、愛知県にある正徳寺というところで会見を行いました。


道三は護衛に囲まれて正装で現れた信長に、大きな器量を感じたと言われています。


それを見た道三は家臣に「我が息子たちはあのうつけ(信長)に負けて家臣となるだろう」と言ったそうです。


斎藤道三は戦国末期に入る前において非常に重要な人物であることは間違いありません。


ただ敵を作りすぎるとどうなってしまうかということを我々に教えてくれた気がします。



今回は美濃のマムシである斎藤道三についてのお話でした。


それではまた次回の記事でお会いしましょう ではでは~


コメント一覧

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