• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 

 今回は太田道灌のひ孫で江戸太田家の礎を築いた太田康資についてみていきたいと思います。


太田道灌と言えば、戦国時代の始まりの時期において非常に優秀な武将の一人として有名だと思います。


しかし太田道灌の死後、太田氏では様々な事態が生じていたようです。


また太田氏では太田資正という人物が有名ですが、太田道灌の嫡流は太田康資の方だと考えられています。


今回はそのひ孫で江戸太田氏のキーパーソンとなった太田康資についてみていきましょう。



ちなみに、上図はマニアックな武将で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~

北条家の一門として期待される・・・



 太田康資は、太田資高の子として1531年に誕生しました。


父太田資高は太田道灌の孫で、祖父の太田道灌が主君である上杉家に暗殺されたことに強い不快感を感じていたと言われています。


そこで1524年、太田資高は主君である上杉朝興の宿敵にあたる北条氏綱に近づき、北条方に寝返ります。


そして、上杉朝興の居城となっていた江戸城を奪取したのです。


この時、太田資高は北条氏綱の娘を正室に迎えて、この二人の間に産まれることになるのが太田康資です。


つまり、その子として産まれた太田康資は北条氏綱の孫ということになり、太田家は北条家と強い血縁関係で結ばれた間柄となったのです。



ちなみに、この時奪取した江戸城は太田道灌が築城した城だと言われています。


要するに、現在の皇居のある江戸城を最初に築いたのが、太田康資の曾祖父である太田道灌だったのです。


その後、江戸城は北条方の重要拠点として位置づけられ、江戸城の本丸には富永直勝の父である富永政直が入り、二の丸には遠山綱景の父である遠山直景が入ったようです。


太田資高は、さらに城の外側の三の丸にある太田道灌ゆかりの香月亭で過ごしたと言われています。


つまり、江戸の城代は3人配置されていて、本丸は富永氏、二の丸は遠山氏、三の丸は太田氏ということになったのです。




1547年7月に父太田資高が死去すると、太田康資は太田家の家督を継ぎ約2千貫の所領を引き継ぎます。


これは北条氏の家臣の中で第6位の知行に相当し、北条氏康が太田康資をかなり厚遇していたとなる証明にもなります。


加えて、同じ江戸城代の遠山綱景の娘の法性院を北条氏康の養女として正室に迎え、太田駒千代と太田重正が誕生します。


これによって、更に北条家との強い繋がりを構築したのです。




1554年、太田康資は駿河に侵攻した武田信玄の家臣である原虎胤を撃退したようで、優れた武勇を発揮しています。


原虎胤は武田家の中でも突出した武勇を誇る武将で、その武将を撃退したとなると相当な強者であったと予想されます。


太田康資は一説に、普通の男が30人程で持ち上げる岩を1人で軽々と持ち上げる強力でもあったと言われています。



しかしこの後、太田康資は北条家との強い繋がりがあるにも関わらず、同族の太田資正とともに謀反を企てることとなるのです。

江戸城への強いこだわり? 第二次国府台合戦の遠因を作ってしまって・・・



 1562年、太田康資は名門である太田家の当主として江戸城の城主になれなかったことを不満に思ったのか、恩賞に不満を持ったのか北条家に対する謀反を考え始めます。


太田康資は江戸城の城代になれたものの、本丸、二の丸には他の江戸城城代の富永直勝、遠山綱景が控えていました。


名門として江戸城を支配したい欲があったのかもしれません。


そこで、太田康資は同族の太田資正を通じて上杉謙信に寝返りを画策しましたが、事前に露見してしまいます。


そして、露見を予期していなかった太田康資は狼狽し、急ぎ太田資正の元へ逃亡したのです。


この時、人質であった子の太田駒千代は自害してしまいます。


自分の子を犠牲にしても太田康資は江戸城主になりたかったのでしょう・・・。




1563年、北条氏康はこのような事態に際し、上杉謙信方の太田資正の城である松山城や岩付城を何度も攻撃します。


上杉謙信は当時違う地方で戦を行っていたため、自分で出陣することが出来ず里見義堯に太田氏救援を要請します。


そこで、里見義堯は跡継ぎである里見義弘を総大将として12000の大軍で国府台城に入ります。


この動きに対して北条方の武将である千葉胤富は、単独での迎撃は無理だと判断し北条氏康に援軍を求めたのです。


北条勢は江戸衆を筆頭に直ちに軍勢を編成し、20000もの大群で国府台に向けて進撃しました。


この時、同じ江戸城代であった富永直勝、遠山綱景は太田康資の裏切りに気づかなかったことを恥じていたも言われていて、血気盛んに行動を起こしてしまいます。


1564年1月、富永直勝、遠山綱景らの江戸衆は、本隊である北条綱成に先行して江戸川を渡河して国府台を攻撃してしまいます。


これが第二次国府台合戦の始まりとなります。


里見勢は先行した遠山綱景と富永直勝らの迎撃に成功して、遠山綱景と富永直勝、舎人経忠らを討ち取り大勝を収めます。


これで、江戸城代であった3人全員が北条側から居なくなってしまったことになります。


江戸衆にとってはこの上ない大打撃となってしまったのです。




しかし、これで戦は終わりではありません。


この勝利に気をよくした里見義弘は、兵に酒を振舞い油断してしまいます。


主力である北条綱成の軍勢は健在であり、1月8日未明に反転して江戸川を渡ると里見勢へ夜襲を仕掛けたのです。


酒宴後の里見勢は大混乱に陥り、里見家の重臣の一人である土岐為頼が戦線を離脱し、筆頭家老であった正木時茂の息子である正木信茂らは討死し、里見勢は敗走してしまいます。


そして、太田康資や太田資正も里見勢と共に安房へ敗走し、太田氏にとって痛い負け戦となってしまったのです。




太田康資はその後里見家で客分となったようですが、その動向ははっきりとはせず諸説あるようです。


太田康資は太田資正と共に佐竹義重を頼ったとも言われています。


しかし一般的には、1581年に発生した正木憲時の反乱で憲時方に加担して小田喜城で自害したと伝えられています。


享年51。

まとめ



 いかがでしたか。


太田康資は名門意識が強いあまり息子を自害に追い込み、結果負けてしまいます。


武勇に秀でた武将であったのは間違いないように思えますが、賢い武将とは言えなかったのかもしれませんね。


ちなみに、徳川家康の側室となった英勝院は、太田康資の娘であったとする説があります。


確かにこの後、英勝院の兄である太田重正の子太田資宗は、英勝院の養子となって浜松藩3万5千石の大名となっています。


徳川家康も江戸城を築いた名門の太田家をないがしろにするわけにはいかなかったのかもしれませんね。




今回は太田道灌のひ孫で、第二次国府台合戦の遠因を作ってしまった武将でもある太田康資についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~



 


コメント一覧

返信2019年12月26日 12:13 AM

富永直勝 北条家で青の軍団を率いた男 海賊を指揮し北条家の重臣となった富永直勝とは・・・ – うたみのブログ26/

[…] って業務を行っていました。江戸城には城代が3人おり、二の丸には遠山綱景、三の丸には太田康資が入っていました。本丸で業務を行っていたということで、江戸城の城代としては一番 […]

返信2019年12月26日 12:27 AM

北条綱高 北条家で赤の軍団を率いた男 北条早雲に育てられ武勇の誉れ高い北条綱高とは・・・ – うたみのブログ26/

[…]  1506年4月、北条綱高は伊豆国雲見上ノ山城で生まれます。父である高橋高種が北条綱高が10歳の時に亡くなると、外祖父である北条早雲に養育されたと言われています。1519年正月に元服し、その年に外祖父である北条早雲は亡くなります。身の丈は5尺5寸(168センチぐらい)と言われ、父親を誘った一族である多目氏に師事して伊豆国韮山に居住したと言われています。 ちなみに多目氏とは北条早雲の代に早雲に従った御由緒六家の一つで、北条家の重臣中の重臣です。多目氏は北条氏康の軍師として河越夜戦で大活躍した多目元忠が有名ですね。北条綱高は早雲の後を継いだ北条氏綱にも信頼され、扇谷上杉家との戦いで大活躍していくのです。1524年、北条氏綱は扇谷上杉家の居城である江戸城攻略に眼を向けます。北条氏綱は江戸城の創設者である太田道灌の孫の太田資高を調略したのです。北条綱高は調略によって江戸城を奪い取られた上杉朝定を追撃し、大打撃を与えることに成功しました。この功績によって北条綱高は相模国玉縄城代を任され、北条氏綱の猶子となり「綱」の1字と「北条」を名乗る事を許されました。ここに高橋家の当主では無く、北条家の一門としての北条綱高が誕生したのです。1534年、北条綱高は扇谷上杉家臣の難波田善銀が守る深大寺城を攻略します。その3年後の1537年、綱高は弟の高橋氏高と共に深大寺城奪回に押し寄せた難波田率いる扇谷上杉軍と対峙します。この時、北条綱高は武藏野の牟礼という場所に砦を築いて抵抗しました。その間に北条氏綱の軍が河越城へ進軍したため、難波田勢は背後を脅かされて撤退します。北条綱高はこの撤退する難波田勢を追撃し、多くの敵兵を討ち取り大勝したと言われています。北条綱高は江戸城の追撃戦に続き、この戦いでも追撃戦を仕掛け扇谷上杉家に大打撃を与えたのです。正に追撃の鬼というべき猛将ですね・・・。この頃、北条綱高の武名は内外に轟いていたと考えられ「北条五色備の赤備え」として恐れられていたと思われます。 同年の1537年、北条綱高は江戸城の城主となり対扇谷上杉家を任されることとなったのです。 ちなみに、後の江戸城の城代は本丸に富永直勝、二の丸に遠山綱景、三の丸に太田康資が入っていて、第二次国府台合戦の原因にもなってしまいます。城主はその更に上司にあたる役職なので、北条綱高は非常に辛い心境であったことは間違いないでしょう。1546年、北条綱高は日本三大奇襲に入る河越夜戦にも参戦し、北条綱成らと共に上杉朝定、古河公方足利晴氏の連合軍と河越城で戦っています。1554年10月には落髪し、龍山と号し龍雲斉と名乗っています。この頃になると隠居の身であったと考えられます。息子である北条康種は、1553年の今川家との戦いで功を上げているので、この戦いを見届けて隠居したのかもしれません。そして1564年、江戸城の三の丸に居住していた太田康資が裏切り、第二次国府台合戦が勃発してしまいます。この戦いに北条綱高も高齢でありながら参陣しています。上記に記したように江戸城城代である富永直勝、遠山綱景らと同じく、負い目を感じていたのかもしれません。 1585年、北条綱高は江戸城でその長い生涯を終えます。享年80。 […]

返信2019年12月28日 12:15 AM

遠山綱景 上杉景虎の叔父で江戸衆を率いた男 遠山の金さんと同族でもある遠山綱景とは・・・ – うたみのブログ26/

[…]   遠山綱景は1513年頃、北条家の重臣である遠山直景の子として産まれます。遠山直景は、遠山家の一族として1490年から1493年頃まで将軍職にあった足利義稙の家臣として活躍した人物になります。遠山とは美濃、三河、信濃の南部にまたがる山中の総名称で、平安時代末期に藤原北家の利仁流の加藤氏がこの地の地頭となり、遠山を名乗ったことから始まったと言われています。その後、遠山氏は東美濃の岩村城を本拠とし活躍したようで、美濃守護となった土岐氏の被官的な立場になったようです。つまり、遠山直景は土岐氏の被官として中央にある足利将軍家に奉公していたということになります。1491年頃、北条家初代となる北条早雲は申次衆を務めており、遠山直景と早雲は京都にある幕府内部で知己となったと考えられます。そして1492年、応仁の乱以降権威の失墜していた幕府で内乱が勃発します。この内乱に遠山直景は巻き込まれて敗走し、知己であった北条早雲を頼って伊豆に逃れてきたと思われます。これが遠山家が北条早雲の重臣となった背景になります。この後、遠山直景は松田氏や大道寺氏とともに後北条氏の三家老となり、重きをなしていったと言われています。1524年、関東では扇谷上杉家と北条氏綱の争いが続いていました。そこで、北条氏綱は扇谷上杉家に不信感を抱いている太田康資の父である太田資高を調略し、約20000の兵を率いて江戸城を攻撃したのです。 江戸城攻防戦は大激戦となりましたが、結果として北条方の勝利に終わり、敗れた上杉朝興は河越城へ逃げ込みました。江戸城はこうして北条氏の手に落ちたのです。そして、北条氏綱は江戸城を修築すると、遠山直景を城代として武蔵進出の最前線を担わせたのです。ちなみに、江戸城の城代は3人配置されていて、本丸には富永直勝の父である富永政直、二の丸には遠山直景、三の丸には太田資高が入っています。このことから、本丸の富永氏を城代の主席と見がちですが、同時代の資料によると北条家は遠山氏に重きを置いていたようです。その後、1533年に遠山直景が亡くなると遠山綱景が家督を継ぎ、江戸城の城代としての御役目も相続することなったのです。 […]

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