今回は上杉謙信の家臣から武田信玄の家臣になった武将大熊朝秀についてみていきたいと思います。
大熊朝秀という人物については知らない人がほとんどだと思います。
2007年の大河ドラマ「風林火山」では上杉家から武田家に移った武将として描かれていたと思います。
私個人のイメージですが、上杉謙信の義による統治よりも武田信玄による現実主義に基づく統治の方が肌にあったのではないかと考えています。
今回は上杉謙信を裏切り、武田信玄に忠義を尽くした大熊朝秀についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
大熊朝秀は、関東管領上杉家の被官である大熊政秀の息子として生を受けます。
生年については不明な点が多くわかっていないようです。
大熊氏は、太田資徳という人物が信濃国(現長野県)高井郡大熊という地を拝領し、地名である大熊を名乗ったのが始まりだと言われています。
太田資徳は、かの有名な太田道灌の弟という説があります。
しかし、これは後付けの可能性もあり、真偽は定かではありません。
その後大熊氏は、関東管領上杉家の被官として越後(現新潟県)に下向し、越後守護の上杉家に仕えたと言われています。
大熊氏は主に領地管理を任されていたようで、大熊朝秀の父親である政秀の代には段銭方という仕事を行っています。
段銭方というのは、国家的行事や寺社の造営などの際に臨時で発生する税を徴収する役職です。
地方を統括する今の税理士さんみたいな感じなのでしょうか。
大熊氏は父である政秀の代から、越後守護の上杉家と越後守護代の長尾家に付いたり離れたりを繰り返していたと言われています。
しかし、経理の才があった大熊氏は、上杉謙信の父親である長尾為景に重宝され、重臣として取り立てられるようになったようです。
戦国時代はこのように一つの才能を持っていなければ生き残れないのかもしれませんね。
ところが、長尾為景が1543年頃に亡くなると越後は再び内乱状態に突入します。
この時、長尾家の家督を継いだ長尾晴景は求心力に欠けていたようで、越後の混乱は収まりそうにはありませんでした。
そこで、長尾晴景の弟である上杉謙信が台頭してくるのです。
1548年、上杉謙信は正式に家督を継ぎ当主となります。
この時、大熊政秀、朝秀親子は謙信擁立派として活躍し、永年の功により頸城郡板倉郷に3000貫の所領を拝領します。
大熊朝秀はこの知行の増加に伴い、居城であった箕冠城の拡大工事を行っています。
1551年、上杉謙信は上杉景勝の父親であり、最後の反乱分子である長尾政景を降伏させ越後統一を果たします。
大熊朝秀は、越後を統一した謙信に更に重用されることになり、長尾家の譜代並みに取りたてられたと言われています。
この頃、信濃では武田信玄が急速に勢力を拡大していました。
1553年、信濃の有力豪族である村上義清が武田信玄に敗れ、謙信を頼って越後に逃走してきたのです。
この時から武田信玄と上杉謙信の因縁が始まりました。
同年8月、第一次川中島の戦いが勃発し、大熊朝秀の父親である大熊政秀はこの戦いで戦死したと伝えられています。
翌1554年、上杉家の家臣で有力者である北条高広が武田信玄に通じて謀反を起こします。
もしかしたらこの頃から、上杉謙信に疑問を持っていたのかもしれません。
謙信の戦いは「義戦」と言われる戦い方で、助けを求められたらその求めに応じて戦を行います。
基本的に戦国時代の戦というのは、武功に応じて新たな知行を獲得するために行われます。
しかし、上杉謙信の戦い方は、求めてきた豪族の旧領を回復させるための戦です。
要するに動員された家中の武将には新たな知行を与えないのです。
そのため、ただ働きだと感じる武将が居たはずです。
その筆頭が北条高広と大熊朝秀だったのかもしれませんね。
また、父親の戦死に違和感を感じていたのかもしれません。
そして1556年、遂に大熊朝秀は謀反を起こして上杉家を出奔してしまうのです。
1556年、上杉家の家臣である上野家成と下平吉長の領土争いが勃発します。
この争いは家中内の派閥対立に発展してしまいます。
大熊朝秀は家中でもかなりの有力者になっており、敵視する者も少なくなかったようです。
上杉謙信の師とも言われる本庄実乃は、大熊朝秀とライバル関係にあったようで大熊朝秀と対立してしまいます。
大熊朝秀が下平吉長に加担すると、本庄実乃は上野家成を支援したと言われています。
そして、上杉謙信はこの争いに幻滅し、突如出奔してしまうのです。
この対立を無視した謙信の行動に、大熊朝秀は更に疑問を持ったことでしょう。
大熊朝秀は武田信玄に密書を送り、謙信に謀反を起こすことを決意したのです。
大熊朝秀の謀反を察知した本庄実乃は、彼の居城である箕冠城の攻撃を計画します。
危険を感じた大熊朝秀は城を脱出し、まず越中に逃れ次いで海路陸路を使って西上野(現群馬県)に逃走したのです。
翌年、西上野に侵入してきた武田信玄は馬場信春を通じて大熊朝秀を召し抱えます。
これでようやく武田家の家臣になる事が出来たのです。
武田家に召し抱えられた大熊朝秀は、武田家最強の赤備えを指揮する山県昌景に預けられ、武田家の凄さに魅了されます。
そして1561年、大熊朝秀は山県昌景の配下として川中島の戦いに参戦し、大いに活躍したと言われています。
1566年、大熊朝秀は西上野の長野業盛が守る箕輪城の攻撃に参戦し武功を上げます。
長野業盛は長野業正の跡継ぎで、その武勇を受け継いでいました。
しかし、若年であったため奮戦むなしく箕輪城は落城し長野業盛は自刃します。
この時、剣聖と言われ恐れられていた上泉信綱が長野勢の一角として参戦していました。
大熊朝秀はこの上泉信綱と一騎打ちを行い、無傷で引き分けたとも言われています。
かくして、この戦での噂を聞いた武田信玄は、大熊朝秀を侍大将に任命し、騎馬30騎、足軽75人持ちの武将に取り立てたのです。
1571年、今川家を滅ぼして遠江(静岡県中部)の一部を支配した武田信玄は、遠江の大井川沿いに小山城を築城します。
大熊朝秀はこの城の城代に任命され、再び城持ちの武将に戻ることが出来たのです。
武田家へ大きな恩義を感じていたに違いありませんね。
こうして武田家の武将として大身を果たした大熊朝秀は、武田家への忠義を貫いていくのです。
1573年、武田家の命運を左右する大事件が起こります。
戦国の英雄の一人である武田信玄が病に倒れ、亡くなってしまったのです。
そして1575年、後を継いだ武田勝頼は長篠の戦いで織田信長に大敗を喫してしまいます。
武田家に動揺が広がる中、大熊朝秀は小山城で守備を命じられています。
1578年、元主君の謙信が亡くなると上杉家で家督争いが勃発します。
この時、大熊朝秀は上杉景勝への交渉を担当したと言われています。
上杉家の内情を知る大熊にとっては朝飯前の仕事だったかもしれませんね。
そして、運命を左右する裏切りが起きてしまいます。
木曽谷の領主である木曽義昌が信長に通じて謀反を起こしたのです。
木曽谷は西からの信濃の入り口に位置する重要拠点です。
その重要性を知っていた武田信玄は娘を木曽義昌に嫁がせていたぐらいでした。
この事態に武田勝頼は激怒し、討伐軍を送り込みます。
しかし、信長の支援を得た木曽義昌は武田勝頼の撃退に成功したのです。
この敗北は武田家の滅亡を予感させるのに十分でした。
ちなみにこの討伐軍に大熊朝秀は参加していたとする説もあるようです。
更に武田領内の南では、武田一門である穴山梅雪がこの敗北を知り徳川家康に寝返ってしまったのです。
武田家の命運は尽きかけていました。
そして、極めつけは小山田信茂の離反でした。
武田勝頼は逃走する最中、小山田信茂の居城である岩殿城に入る寸前で裏切られたのです。
大熊朝秀はこの一行に随行していたようで、武田勝頼と運命を共にすることを決意します。
武田勝頼は天目山で自害し、大熊朝秀も天目山で奮戦し討ち死にしたと言われています。
最期まで武田家への忠誠を示したのです。
いかがでしたか
大熊朝秀は謙信を裏切った彼の性格を考えると、武田家を裏切っても不思議では無かったと思います。
しかし、謙信と馬が合わなかっただけで、本来は忠義心に溢れた武将だったのかもしれませんね。
ちなみに息子である大熊常光は真田昌幸、真田信幸に仕え、後に大熊家は真田家の筆頭家老としての地位を得ます。
真田家では大熊朝秀の人柄などを評価していたのかもしれませんね。
今回は上杉謙信を見限り、武田家へ忠義を示した有能な武将・大熊朝秀についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~