• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 今回は信長の妹であり、数奇な運命を辿ったお市の方についてです。


お市の方という人物を皆さんは知っているでしょうか。


お市の方は信長の妹であり、現在の天皇家にも彼女の血筋が入っているほどの人物になります。


彼女は戦国一の美女と言われましたが、もしかしたら幸せな人生ではなかったのかもしれません。


何故なら夫を二度戦で亡くしているからです。


一度だけでなく二度もです。


そして二度目の夫の死に耐え切れず自分も自害して人生を閉じます。


今回は姫として、美女として産まれながら悲しい運命を辿ったお市の方について考えてみることにしましょう。


ちなみに、上図はお市の方の父織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~



信長の切り札として

 お市の方は1547年、織田信秀の5女として産まれました。


母は信長と同じ土田御前と言われています。


お市の方の前半生については資料がほとんどなく不明な点が多いようです。


歴史上登場するのは浅井長政との婚姻からです。


当時の織田家は織田信長が当主として後を継いでいて、破竹の勢いで勢力を拡大していました。


桶狭間の戦いで勢いに乗った織田信長は美濃(現岐阜県の一部)を攻略しようとしていました。


しかし美濃の斎藤家はなかなか手強く、織田信長は斎藤家への攻略に集中するため西を固める必要がありました。


そこで目を付けたのが北近江(現滋賀県の一部)を支配する浅井家でした。


浅井家では浅井長政が父親を差し置いて当主になり、勢いに乗っていました。


織田信長は浅井長政の噂を聞き、敵とするより味方にするべきだと考えたようです。


1567年、浅井長政とお市の方は婚姻します。


お市の方はこの時21歳で、この時代にしては非常に晩婚でした。


これは戦国一の美女と噂されていたお市の方を、最良の相手と結ばせるために信長が切り札として取っておいた可能性があります。


しかし、この結婚がもたらす今後の悲劇まで信長が予想することは出来なかったのです。

娘たちと共に女手一つで・・・

 浅井長政とお市の方は非常に仲の良い夫婦だったと言われています。


最初はぎこちなかったようですが、浅井長政の優しさにお市の方も惹かれていったようです。


1569年に茶々(後の淀殿)、1570年に(後の常高院)が生まれます。


しかし1570年、浅井長政に嫁いでいたお市の方に転機が訪れてしまいます。


夫である浅井長政が織田信長を突然裏切り、織田信長と敵対し始めてしまったのです。


これは織田信長が浅井家とつながりの深い朝倉家の朝倉義景を何の通達も無く攻め始めたことが原因でした。


この状況をお市の方はどう思ったのでしょうか。


この時代、もし実家と婚約した家が対立した場合は実家に送り返されるのが一般的でした。


しかしお市の方は実家に帰らず、更に信長と対立中に浅井長政の子供を儲けます。


その子供が2011年の大河ドラマの主役になった後の江(崇源院)です。


このことからも浅井長政とお市の方が仲睦まじかったことが伺えます。


浅井長政は信長と対立しますが、戦で負け続けてしまいます。


1573年9月、浅井家の居城である小谷城が陥落し、夫である浅井長政は自害してしまいました。


この時お市の方は夫と共に自害しようと考えますが、浅井長政の説得により娘達を育てる道を選んだと言われています


ちなみに織田信長は小谷城を包囲した際、お市の方やその娘達を救出するため包囲後しばらくは攻撃をしなかったと言われています。


この小谷城の攻撃した主導したのが後の豊臣秀吉だったと言われています。


この後、救出されたお市の方は夫を持たず女手一つで娘たちを育てていく事になりました。

平穏な日々から激動の最期へ・・・

 夫である浅井長政が亡くなった後、お市の方は信長の許しを得て叔父である織田信次の居る尾張(愛知県西部)の守山城に預けられたと言われています。


しかし翌年叔父である織田信次が亡くなると、信長自身が居る岐阜城で過ごします。


お市の方を不憫に思ったのか、信長はお市の方やその娘を手厚く保護したようです。


信長は非常に恐ろしいイメージが強いと思いますが、身内に対しては非常に甘いです。


弟である織田信行が謀反を起こしたあとも母親の仲介もあり一度は許しています。


一度裏切ったり、敵対した相手には容赦ないですが、身内には弱かったようです。


お市の方はこの後の8年間、平穏な日々を送ったようです。


ある意味一番幸せな日々であったのかしれません。


しかし、1582年6月、日本で最も有名であろう事件が起きます。


本能寺の変です。


信長が明智光秀に討たれた後、明智光秀を倒した豊臣秀吉が台頭してきます。


そして、信長亡き後の織田家の方針を決める清洲会議が行われました。


ここで織田家筆頭として名高い柴田勝家は織田信長の三男である織田信孝を推挙します。


豊臣秀吉は織田信長の孫で織田信長の長男信忠の子の三法師を推挙します。


最終的にこの清須会議では秀吉の推す三法師が跡継ぎに決まりました。


しかし、柴田勝家をあからさまに怒らせてしまった秀吉はここで柴田勝家にお市の方との婚約を勧めたとも言われています。


実際に秀吉が婚約を取り持った確たる事実はないですが、織田家筆頭の柴田勝家をあからさまに敵に回すことは秀吉にとっても良くありませんでした。


柴田勝家にとっても信長と同じ血を引くお市の方を娶ることは、織田家での発言力を増すことにも繋がります。


このような背景がありお市の方は柴田勝家に嫁ぐことになりました。


この後、秀吉の努力は甲斐なく、秀吉と柴田勝家は決定的に対立してしまいます。


そして、追い詰められた柴田勝家は居城である北ノ庄城で自害しようと決意しました。


この時、柴田勝家はお市の方に再び落ち延びるように説得しますが、お市の方の心は決まっていました。


娘たちを秀吉に託し、お市の方は柴田勝家とともに自害します。


享年37。

まとめ

 いかがでしたか


結果的にですが、お市の方は秀吉に二度も夫を殺されてしまったことになりました。


秀吉を憎んだかもしれません。


しかし、娘たちを秀吉に託したことを考えるとそこまで憎んでいなかったかもしれませんね。


また、落ち延びた娘たちは浅井三姉妹として後の世に名を轟かすことになります。


長女の茶々は秀吉の子で後の豊臣秀頼を産み、三女の江は徳川2代将軍の徳川秀忠に嫁いで3代将軍徳川家光を産みます。


娘たちは時の権力者である人物にそれぞれ嫁ぐことによって、現在もお市の方の血は受け継がれていっています。


ちなみに三女である江は二番目の夫との間に産まれた豊臣完子が九条家に嫁ぎます。


その九条家の末裔が大正天皇の皇后になる貞明皇后になります。


昭和天皇の母親にあたる方になります。



今回は悲しい運命を辿った戦国女性であるお市の方についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


コメント一覧

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