今回は2020年の大河ドラマで重要人物である織田信秀についてみていきたいと思います。
明智光秀が暮らす美濃国の隣国には尾張国という国があります。
その国で活躍し今川義元、斎藤道三を苦しめたのが織田信秀という人物です。
「織田」という字から予想できる方がいるかもしれませんが、織田信秀は織田信長の父にあたります。
信長が周囲から嫌われる中、強い愛情をもって信長を見守った人物でもあります。
信長も父を認めていて尊敬していたようです。
信長に尊敬され、今川義元、斎藤道三と渡り合った織田信秀という人物について少しみていくことにしましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
織田信秀は尾張(現愛知県の一部)にある清州三奉行の一つである弾正忠織田家の跡取りとして生まれます。
尾張はまずトップの守護である斯波家があり、その下に守護を補佐する守護代である清州織田家があります。
その清州織田家に仕える3つの大きな部下の家の一つが弾正忠織田家です。
一応御曹司ではありますが、国のトップになれる家柄ではないことがわかります。
父親である織田信定は息子の信秀の才能を幼いころからわかっていたようで、1526年、信秀が15歳の時に家督を譲ります。
織田信秀は信長の傅役(教育係みたいなもの)となる平手政秀などの家臣に支えられながら領国経営をしていく事になります。
まず織田信秀が目を付けたのはお金を工面することでした。
お金が無ければ人は動かないということを若いながらに実感していたんだと思います。
伊勢湾に面した津島という場所に門前町を作り、商業の拠点とします。
ここを支配した信秀は経済的地盤を築くことになります。
その後1532年、当時尾張の一部にまで進出していた今川家の今川氏豊という人物に眼をつけます。
今川氏豊を油断させて居城の那古野城を奪い取ります。
ここまで、類まれなる才能で勢力を拡大してきた信秀ですが、ここで強力なライバル達が出現することになるんです。
尾張の東側に三河という国があります。今の愛知県の東部ですね。
この三河の国には松平清康という人物が国を治めていました。
この人物は織田信秀と同じ年で、後の徳川家康の祖父でもあります。
松平清康は若くして三河を統一し、天下にも手が届くと言われるほどの人物でした。
その松平清康は1530年ごろから織田信秀のいる尾張に侵入し勢力を拡大していきます。
ある時、美濃の斎藤道三と組んで1万以上の大軍で尾張に侵攻してきました。
流石に大ピンチだった織田信秀に信じられない情報が入ります。
1535年、尾張の奥深くまで侵入してきた松平清康が家臣の手にかかり、陣中で殺されてしまったというのです。
松平清康が殺されたことで三河国の混乱に陥ります。
これを好機ととらえた織田信秀は三河国の東側にある安祥城を奪取することに成功します。
しかし、今川家の援助を得た松平家は、織田信秀のこれ以上の侵入を許さず、対決姿勢を見せていく事になります。
この頃、数年前に今川家の家督を継いでいた今川義元が、尾張の混乱を察して松平家を取り込んでいたのです。
1540年頃、今川義元は自国の領土の東側に北条家という敵を抱えていたため、織田信秀と争うことをいったん諦めますが、今後強大な敵として信秀の前に立ちふさがることになっていきます。
1539年、織田信秀は今の名古屋市中区に古都城という城を建てて、2つ目の経済の拠点である熱田を支配します。
これで熱田の豪商達と津島の港町によって、莫大な資金を得ることになりました。
このお金を背景に更に勢力拡大を図っていく事になります。
1542年、斎藤道三が主君である土岐頼芸を追放し、美濃を乗っ取る事件が起きます。
この事件を好機と見た信秀は土岐頼芸の求めに応じて、越前(現福井県)の朝倉孝景とともに美濃に侵攻します。
ここで美濃の西側にある大垣城を奪い取ります。
更に尾張の東側では三河国の松平国に揺さぶりをかけます。
当時今川家に臣従していた松平家の当主松平広忠の息子で、後の徳川家康になる竹千代を尾張に奪い取ります。
松平広忠が臣従の証として息子の竹千代を今川家に輸送する最中に、織田信秀のお金の力で買収された松平家の家臣が今川家を裏切り、尾張に移送したと言われています。
この事に怒りを感じた今川義元の軍師、太原雪斎は織田家への侵攻を開始することになります。
1546年、大事な居城の一つである那古野城を幼少である織田信長に譲ります。
信長は幼い時から信秀に期待をされていたようで、教育の一環として居城を与えられ、家臣とともに領国経営を行っていたようです。
1547年、織田信秀は斎藤道三の居城である稲葉山城を攻撃しますが、大敗をしてしまいます。
更に竹千代奪還に燃える松平家を後押しする形で、今川家の太原雪斎が安祥城に攻めてきてしまいました。
この状況下において危機を感じた織田信秀は斎藤道三と和議を結んで、信長に斎藤道三の娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせます。
しかし、松平、今川連合軍の指揮は凄まじく東三河の安祥城は奪われてしまいます。
この時、安祥城を守っていた信秀の息子の織田信広が捕虜として捕まってしまいました。
今川、松平連合軍はこの織田信広と竹千代の人質交換を要求し、竹千代は今川家の駿府(現静岡県東部)に移送されることになり、織田信秀の手痛い敗退となったのです。
しかし、竹千代が尾張で過ごした2年ほどの期間が、後の織田、徳川両家の友好関係に繋がったとも言われています。
織田信秀は今川家の脅威を感じながら、1552年、はやり病により亡くなったと言われています。享年42。
いかがでしたか
少しは信長の父親である織田信秀についてわかっていただけたかと思います。
織田信秀は、家臣の身でありながら本家や国主を上回るほどの力をつけ、後の信長の世の礎を築きました。
周りを強敵に囲まれながら、苦難を生き抜いたその姿は信長に非常に強い影響を与えました。
家臣や周辺諸国で信長を「大うつけ」と揶揄されていた事など全く気にせず、一貫して信長を後継者に指名していました。
信長は信秀の愛情を感じていたからこそ、強く生きていく事が出来たのかもしれません。
今回は信長の父である織田信秀についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~