• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 


 今回は上杉四天王の一人で、直江兼続の養父でもある直江景綱についてみていきたいと思います。


直江景綱と聞いて「直江兼続と関係あるの?」と思う方も多いのではないでしょうか。


確かに直江兼続の義理の父であり関係はあります。


しかし、直江兼続は直江景綱の死後に直江景綱の娘を娶っているので、親子としては一切過ごしてはいないはずです。


上杉家の重臣である直江家を継ぐために直江兼続は景綱の娘を娶ったのです。


直江家はそれほど上杉家の中で重要な家柄ということになります。


今回は上杉謙信の時代に直江家の当主として活躍し、上杉四天王とまで言われた直江景綱についてみていきたいと思います。






ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~



謙信の父、長尾為景の家臣として

 

 直江景綱は1509年、越後守護上杉家の家臣である直江親綱の子として産まれました。


直江家は元々は上杉家の家臣である飯沼氏の被官であたようですが、1514年越後上杉家と争っていた越後守護代の長尾為景に飯沼氏が滅ぼされると状況が一変します。


被官であった直江家は、飯沼氏の滅亡により飯沼氏の居城であった与板城の城主になったようです。


その後、直江家は長尾家に仕えて地位を確立していったと思われます。




唐突ですが直江景綱の事績の前に、少しだけこの時代の越後の情勢についてお話させていただきます。


1539年、当時越後上杉家と越後守護代長尾家は争いを続けていました。


しかし、長尾為景は上司にあたる上杉家には表立って逆らうことなど出来ませんでした。


そこで長尾為景は上杉定実に子供が居ないことを好機とみて、他国から養子をもらうように取り計らいます。


これが後に越後天文の乱といわれる元となってしまったのです。


詳しい話は割愛しますが、越後天文の乱とは奥州の伊達家の当主伊達稙宗の三男・時宗丸を上杉定実の養子にするかどうかで二分した内乱です。


ちなみにこの時宗丸は後の伊達実元で、伊達政宗の側近で有名な伊達成実の父親にあたる人物です。


長尾為景は当初養子を迎えることに積極的でしたが、伊達家が軍事介入してきた事で拒絶の姿勢を取ります。


ここで養子を支援するものと、養子を拒絶する勢力で二分してしまったのです。




この時、直江景綱は長尾為景との考えに同調せず、中条藤資らとともに入嗣推進派として動いていたようです。


1542年には、伊達家に対して時宗丸の迎えの使者を送っています。


家中が二分するこの最中、長尾為景は亡くなってしまいます。


長尾為景はカリスマ性があり、非常に強い求心力を持っていました。


しかし、この為景の死によって、越後は更に混沌とした状況になってしまうのです。

裏方として上杉謙信を支える

 

 このような状況になり、当主となっていた長尾晴景は仏門に入っていた弟を呼び寄せます。


この弟が後の上杉謙信です。


1543年、謙信は直江景綱の居城の与板城にほど近い栃尾城に入ります。


謙信と直江景綱の信頼関係はこの時に築かれたと考えられています。


1546年、長尾家で黒田一族が謀反を起こすと謙信は若くしてこれを鎮圧してしまいます。


この働きに驚嘆した直江景綱は、栃尾城主の本庄実乃らと共に謙信を当主にしようと動き始めました。


翌年、長尾晴景と謙信が対立した際には、中条藤資などと謙信を支援しています。


そして、1548年、謙信は兄である晴景と和解し当主となったのです。


1556年、謙信が家臣の領地問題に幻滅し、突如家出をしてしまいます。


この時、家中の有力者である大熊朝秀が謀反をおこします。


政務の一部を担当していた大熊朝秀が居なくなり、直江景綱は本庄実乃と共に奉行職として数多くの政務を取り仕切ったと言われています。


ちなみに謀反を起こした大熊朝秀は武田信玄に招かれ、武田家の重臣となっていきます。


1559年には謙信の上洛における折衝役を務め、1560年の関東出兵には謙信の居城である春日山城の留守役を任されるなど大役をこなしていきます。


1561年の川中島の戦いでは上杉軍の兵糧輸送を担当し、武田信玄の長男である武田義信隊を敗走させたと言われています。


1577年、謙信が亡くなる一年前に直江景綱は亡くなります。


享年69。


ちなみに1575年にまとめられた上杉軍役帳によると、直江景綱は305人もの軍役を課せられていたようで、家中でも最大の家柄となっていた事がわかります。


このように直江景綱は内政、外交といった政治的な仕事を多く行い、裏方として謙信を常に支えていたのです。

直江景綱の死後・・・

 

 直江景綱の死後、直江家は長尾家の血を引く直江信綱が当主となります。


直江信綱は直江景綱の娘であるお船の方を娶とり、直江家を継ぐことになりました。


直江景綱の子に男子がいなかったため。1578年に謙信が急死すると、直江信綱は謙信の養子である上杉景勝を支援します。


上杉景勝が御館の乱で勝利すると、更に重用されるようになります。


そして1581年、御館の乱後の恩賞トラブルに巻き込まれ、河田長親の遺領を巡り春日山城で殺害されてしまいます。


この状況を憂いた上杉景勝は、未亡人となっていたお船の方を直江兼続に娶とらせて直江家を継がせることにしたのです。


これが直江兼続が直江家を継いだ経緯になります。


つまり、直江景綱と直江兼続は義理の親子ということになるのですが、景綱の生前には親子関係では無かったのです。


直江景綱からすると、自分の同意無しに直江家を継いだ直江兼続をあの世でどう見ていたのでしょうね。

まとめ

 

 いかがでしたか。


今回は上杉家四天王の1人、直江景綱についてみてきました。


地味な働きの多い直江景綱ですが、大河ドラマなどで上杉謙信がピックアップされると、必ずと言っていいほど登場します。


謙信の側近で、直江兼続との関係性もあるので登場せざるを得ないですよね。


その後の直江兼続の働きは、直江景綱という人の土台の上で築かれたものです。


そのことを決して忘れてはいけないと私は思います。


今回は上杉謙信に最も信頼された上杉家の宿老、直江景綱についてお話しさせていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは〜


コメント一覧

返信2019年12月17日 4:02 PM

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