今回は上杉謙信から信頼され家臣筆頭になった中条藤資についてみていきたいと思います。
中条藤資と言われてもほとんどの方は名前すら聞いたことが無いと思います。
私は信長の野望というゲームで上杉謙信の家臣として知っていたぐらいでした。
しかし、知れば知るほど上杉家で重要な人物であることがわかってきました。
今回は上杉謙信に感謝状を贈られたこともある中条藤資についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
目次
中条藤資は越後の北(揚北衆)に位置する鳥坂城の城主中条定資の子として生まれます。
中条藤資の生年についてはわかっていません。
しかし、1494年に父である中条定資の戦死により家督を継いでいるという事実があるので、謙信が台頭する50以上前には誕生していたと考えられています。
中条藤資が家督を継いだ頃、越後の情勢は混沌としていました。
1507年、守護の上杉家を継いだ上杉房能は男子に恵まれていたかったため、同族である上条上杉家から上杉定実を後継者として迎えていました。
しかし、両者の仲は決して良くなく、そこを謙信の父親である長尾為景に付け込まれてしまったのです。
長尾為景は上杉定実を擁立して現職の守護上杉房能にクーデターを起こしたのです。
この戦で守護である上杉房能は自刃して亡くなってしまいます。
このクーデター以後、越後国内は上杉定実を擁する長尾為景方とそれに反対する勢力とに分かれて熾烈な戦いが繰り広げられることとなったのです。
同年、越後の有力豪族の一つである本庄氏などが長尾為景方に反抗し挙兵します。
この時、中条藤資はかれらと同じ揚北衆でありながら、長尾為景方に属して本庄家当主本庄時長らと戦う道を選んだのです。
ちなみにこの本庄時長という人物は、かの有名な本庄繁長の祖父である人物です。
中条藤資は安田長秀らとともに本庄城へ押し寄せ、猛攻のすえこの城を落とすことに成功します。
この合戦で本庄時長は嫡子弥次郎を討ち取られ城を後に退去し、中条藤資は上杉定実から恩賞として一部の領地を与えられています。
本庄氏が敗れた後、揚北衆の一つである色部氏は未だに頑強に抵抗を続けていました。
長尾為景方は中条藤資や北条高広・安田景元らの一族である毛利氏に命じて色部昌長の立て籠る平林城を攻撃したと言われています。
色部昌長はなおも抵抗を続けましたが、1508年5月に長尾為景方に降伏したのです。
このようにして、中条藤資はいち早く長尾為景の才能を感じ取り、為景の将として各地を転戦して武名を轟かせていくのです。
このようにして長尾為景、上杉定実政権は安定期に入り、しばらくは越後に平穏が訪れます。
しかし、越後における実権は長尾為景が掌握しており、上杉定実はお飾りに過ぎませんでした。
上杉定実は長尾為景の横暴に対し、実家の上条上杉氏の上条定憲や宇佐美定満らを味方にして為景排斥の兵をあげたのです。
ところが、為景によって一蹴され逆に幽閉の身となってしまいます。
守護の上杉家をないがしろにする長尾為景に越後では不満が爆発寸前となっていました。
遂に上条定憲は本腰を入れて反乱を起こし、再び越後を二分する戦いが起きてしまったのです。
中条藤資は他の揚北衆である色部、本庄、黒川氏らとともに遂に長尾為景の下を離れ上条方に与して戦いを始めました。
ちなみに、この時上条側についた中条藤資・本庄房長・色部弥三郎・鮎川清長・水原政家・新発田綱貞・黒川清実らの連名で書かれた文書が残っています。
しかし、その中で中条藤資だけが花押がなかったのです。
理由としては「藤資こと歓楽の故に判形(花押)能わず候」と断り書が残されています。
これは、諸将が集まり作戦を練った時に酒を飲んで酔っ払ってしまっていたからではないかと考えられています。
しかし、この後程なくして中条藤資は長尾為景方に戻っています。
もしかしたら、長尾為景方に戻ろうとしてわざと花押を押さなかったのかもしれませんね。
その後も乱は続き、中条藤資は再び毛利一族とともに長尾為景方に付いて戦いました。
結果として長尾為景方がこの戦いに勝利しましたが、為景側の被害も甚大でした。
そのため地域の安定化のため長尾為景は隠居を余儀なくされたのです。
為景は家督を長男の長尾晴景に譲ることにしましたが、これは名目上の隠居であり、依然として実権は為景が保持していたようです。
1540年頃、この越後の内乱を鎮めた長尾為景でしたが一つ策を巡らせます。
為景は上司にあたる上杉家には表立って逆らうことが出来なかったため、上杉定実に子供が居ないことを好機とみて、他国から養子をもらうように取り計らったのです。
これが後に越後天文の乱といわれる分裂を招いてしまうのです。
越後天文の乱とは奥州の伊達家の当主伊達稙宗の三男・時宗丸を上杉定実の養子にするかどうかで二分した内乱です。
ちなみにこの時宗丸は後の伊達実元で、伊達政宗の側近で有名な伊達成実の父親にあたる人物です。
更に中条藤資にとって時宗丸は妹が生んだ子供であり、甥となる人物でした。
甥が上杉家の当主になれば中条家の立場は格段の向上する可能性がありました。
そのため、当然のように中条藤資は養子縁組を推し進めていったのです。
長尾為景も当初養子を迎えることに積極的でしたが、伊達家が軍事介入してきた事で拒絶の姿勢を取りはじめます。
また、中条氏の勢力が強化されることを嫌った本庄、色部氏ら他の揚北衆も養子の一件に反対します。
更に守護代長尾晴景も定実に後継者のできることは、みずからの不利につながることになり養子反対の立場を示したのです。
ここで養子を支援するものと、養子を拒絶する勢力で二分してしまったのです。
この後、長尾為景は亡くなったとみられますが、家督を継いだ長尾晴景は元々病弱で求心力に欠けていました。
長尾晴景はこの二分した争いを収める力は無かったのです。
そこで、この内乱を鎮めるために晴景が起用したのが弟である長尾景虎(後の上杉謙信)だったのです。
養子縁組の件で長尾家当主・長尾晴景と対立してしまった中条藤資は、晴景の弟である謙信に着目します。
この時、謙信は反乱する豪族を次々と鎮圧していて、その器量を遺憾なく示していました。
1546年、中条藤資は義理の甥にあたる高梨政頼を誘い、謙信を越後の国主に擁立しようと画策し始めます。
これに、本庄実乃、大熊朝秀、直江景綱、長尾景信らが加担して一大勢力となったのです。
この動きを察知した長尾晴景は、中条藤資と対立する黒川清実、長尾政景らを味方に付け、抵抗する姿勢を見せ始めました。
しかし、次第に上杉謙信方が優勢となり、この事態を憂いた守護上杉定実の調停によって和議が結ばれ、晴景は謙信を養子とした上で家督を譲り隠退したのです。
ちなみに養子縁組の件は、伊達家での内乱も誘発し帳消しとなっていました。
つまり、謙信の当主交代劇は中条藤資にとって最善の結果となったのです。
かくして、謙信を最初に擁立しようとした中条藤資は、謙信に信頼され家臣団の中でも一門に次ぐ待遇を受けることとなったのです。
1556年、謙信は家臣の領地争いに疲れ果て、急に出奔してしまう大事件が起きてしまいます。
そして、これを知った長尾政景らの家臣団は、出家していた謙信を発見し「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出して一連の騒動を治めたと言われています。
このとき、中条藤資は謙信に対して人質を差し出し、今後とも無二の奉公を誓う起請文を差し出したといいます。
この動きに謙信は大変喜び、中条藤資は更に重用されていく事となったのです。
その後も各地で戦功を挙げ、川中島の戦いでは謙信より血染めの感状を貰ったと言われています。
そして亡くなる少し前、謙信は中条藤資に対して「この輝虎(謙信以前の名前)、生涯忘れることはありません」と書かれた血判誓詞を発給し、長年の感謝の意を伝えたと言われています。
1568年、中条藤資は数々の伝説を残し天に召されます。
享年は80を超えていたとも言われています。
いかがでしたか
中条藤資は各地で戦を重ね、謙信擁立を最初に思い付いた人物ということになります。
中条藤資が「戦国大名上杉謙信を作った」と言っても過言ではないと思います。
また、謙信が産まれるずっと前から戦に明け暮れていたので、謙信は中条藤資を早くに亡くなった父親に重ねていたのかもしれません。
今回は上杉謙信に信頼され越後の動乱を生き抜いた中条藤資についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~