今回は2020年大河ドラマで明智光秀の盟友である細川藤孝の兄である三淵藤英についてみていきたいと思います。
正直ある程度歴史の知識に自信のある私も最近までは「誰ですか」という感じでした(笑)。
細川藤孝という名前を見た時に「三淵」という単語を見た記憶があったぐらいです。
足利将軍家と少しは関わりがあるんだろうなと思っていましたが、調べれば調べるほど将軍家と深い関わりがあることがわかりました。
私もつたない知識であるかもしれないですが、「誰」と言いたくなる三淵藤英について視ていくことにしましょう。
ちなみに、上図は明智光秀の叔父の明智光安で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
はじめに、そもそも三淵家とはどのような家柄なのかについてお話させていただきます。
三淵家とは代々、奉公衆や御部屋衆などを務めた家柄で幕府と密接な関係がある一族だったようです。
奉公衆とは将軍家の親衛隊のようなもので、将軍家直属の軍の集まりになります。
御部屋衆は大河ドラマなどでたまに出てくる将軍の寝床を警護している役職です。
この二つ役職を見ると三淵家は非常に足利将軍家に信用されている家柄だとわかると思います。
また、更に三淵藤英、細川藤孝の父親である三淵晴員(みつぶち はるかず)は当時将軍であった足利義晴に近従したことで申次衆になったと思われます。
申次衆とは簡単に言うと将軍の意見などを取り次ぐ役職です。
現在の研究ではかの有名な北条早雲も申次衆の一人であったと考えられています。
また、三淵晴員の姉である清光院が足利義晴の養育係を務めたようで、幕府の側近として更に重用されはじめたと考えられています。
以上の背景により三淵藤英は三淵家の長男として幕府の側近の道を進んでいく事になるんです。
三淵藤英が登場するのは1540年が初めてになり、御部屋衆としての記述が何度かあるようです。
1546年に足利義輝が幼くして将軍に就任する時にも付き従ったと考えられています。
足利義輝は当初、足利義藤という名前っだったのでその藤の名前をもらい三淵藤英と名乗ったそうです。
このように足利義輝とも関係が深かったようですが、1562年幕府の中枢にある政所の執事である伊勢貞孝が足利義輝に謀反を起こすと三淵藤英の記録が無くなります。
これは伊勢貞孝に加担してしまった可能性が考えられます。
当時の幕府は権威が失墜しつつある頃で、周囲では三好家が勢力を拡大してきて
いました。
幕府の中心にいる人物でさえ謀反するぐらいなので、その周りの人間も様々な思惑があり動いていたと思われます。
しかし、1565年事件が起きます。
突如、三好家の三好義継、三好三人衆、松永久秀らに足利義輝が襲われて死んでしまいます。
この時、将軍家の親衛隊である奉公衆であった三淵藤英は本来であれば足利義輝とともに戦っていたはずです。
しかし、1562年の伊勢貞孝に加担したことによって疎まれていて、側近として奉公していなかったと考えられています。
このことが契機になり、三淵藤英は再び動き始めます。
この事件で監禁されていた足利義輝の弟である後の足利義昭である覚慶を救い出します。
そして三淵藤英は弟の細川藤孝とともに次期将軍擁立に奔走していく事になるんです。
足利義昭は救い出された後、各地の大名に文を書き正式に将軍となるために共に上洛してほしいとお願いをします。
各地に身を寄せる足利義昭に付き従い、越前の朝倉義景のもとに一時身を寄せます。
この時に明智光秀と知り合ったと考えられています。(明智光秀は足利義輝に一時仕えていた可能性もあるのでなんとも言えないですが・・・)
この間、三淵藤英は三好家と戦ったり、上洛の準備として大和で工作をしたりしていたようです。
1568年、遂に織田信長の助力を得て足利義昭は上洛を果たします。
上洛後、足利義昭は正式な将軍に就き、三淵藤英は伏見城周辺の守備を命ぜられる大役を担うことになりました。
ちなみに伏見城とは、後の権力者である豊臣秀吉や徳川家康が政務を行った日本の中心となる非常に重要な城です。
しかし5年後の1573年、足利義昭は自分を利用するだけの信長に嫌気がさして兵を上げます。
織田信長と足利義昭は戦をすることになりました。
この時三淵藤英は、当然のように足利義昭に付き従います。
もちろん弟である細川藤孝も自分と一緒に足利義昭に仕えると思っていましたが、藤孝は信長に付いてしまいます。
このことに激怒した三淵藤孝は細川藤孝の居城を襲撃する計画を立るほどでした。
二条城を任された三淵藤英はあっけなく大軍に包囲されてしまいます。
他の武将が次々と城から出て降伏する中、藤英は籠城を続けます。
しかし、多勢に無勢だったようで、柴田勝家の説得を得て降伏したと言われています。
降伏後、足利義昭も居所を攻められ降伏し、信長によって追放されてしまいます。
これにより三淵藤英は信長側に降りることを決め、信長軍として残る足利義昭派の城などを攻略することになりました。
そして翌年の1574年、信長側として人生の方針を変えようとしていた三淵藤英に驚くべきニュースが入ります。
降伏し許されていたはずが、突如所領を没収されてしまいます。
それだけではなく、息子と共に自害するように命じられます。
明智光秀の居城である坂本城で預かりの身となっていた三淵藤英は、この城で自害して生涯を閉じました。
細川藤孝のように上手く立ち回ることは出来ませんでしたが、将軍家に忠義を尽くした人生となったのです。
いかがでしたか
今回は細川藤孝の兄である三淵藤英についてお話させていただきました。
私自身としては自分のやり方を貫いた良い人生だと思います。
しかし、足利義昭に完全に忠義を尽くすなら、義昭が信長に追放された後も付いていくべきです。
敵方の降伏を受け入れる必要な無かったのではと・・・
ただこの時代、様々な思惑が入り乱れているので難しい決断だったとも思います。
「忠義だけでは世の中渡っていけない」と感じていた矢先の死だったのかもしれません。
この兄の死を目の当たりにした細川藤孝は、世を上手く渡るために私情を捨て、したたかな決断をしていったのかもしれません。
今回の記事はここまで。
ではまた違う記事でお会いしましょう。
ではでは~