今回は主君を何度も変え続けて生き残った武将の一人である北条高広(きたじょう たかひろ)についてみていきたいと思います。
北条高広を知っている人は「まぎらわしい人」「裏切ることが大好き」などと感じているのではないでしょうか。
その通りです。まず、読み方が「きたじょう」であって「ほうじょう」ではないですし、確かに幾度どなく主君を変えています。
ですが少し考え方を変えてみてください。
裏を返せば、北条高広は裏切っても許されてきた武将でもあったということです。
今回はこの不思議にも許され続けた武将北条高広についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
北条高広は1517年、石曽根毛利氏に属していた高定の子として産まれたと言われています。
ただ北条高広の出生については諸説あるようで、現在はこの説が有力であると言われています。
父親の名前にもありますが、北条高広は毛利氏に属する家柄です。
あの有名な毛利元就と同族ということになります。
また、北条家の方が毛利元就の安芸毛利氏よりも由緒正しい家柄であり、北条高広は自身の家柄に誇りを持っていたのかもしれません。
北条家の前当主は北条広春という人物で、1530年頃に亡くなっているようです。
北条広春は同族である安田氏の家督も同時に継いでいたとする説もあり、両家は複雑な関係にあったと推測されます。
北条広春が亡くなると、北条家の家督は北条高広が、安田家の家督は安田景元がそれぞれ継いだと言われています。
ちなみに、北条高広と安田景元は同族でありながらライバル関係にあったようで、それぞれが敵対的であったと考えられています。
前当主であった北条広春が亡くなった1530年頃、越後では内乱が発生していて混沌とした状態でした。
越後守護の上杉定実の弟にあたる上条定憲が挙兵をし、反乱を企てたんです。
北条高広は、他の豪族たちと共に上条定憲に加担しましたが、後に長尾為景と和解をして逆に上条城を攻め始めます。
しかし1534年、これに激怒した上条定憲は宇佐美定満らとともに北条城を攻め立てました。
北条高広と安田景元はこの攻撃を協力して撃退し、長尾為景から激励の書状を送られています。
この後、長尾為景はこの戦に勝利したものの、長尾方も深刻な打撃を受けてしまいました。
そこで長尾為景は、長男の長尾晴景に家督を譲って隠退せざるを得ない状況になってしまったのです。
その後、病弱な長尾晴景に代わり弟である上杉謙信が台頭してきます。
1548年に上杉謙信は新当主となり、1551年には越後を統一します。
このような状況の中、北条高広は謙信に対して嫌悪感を抱いていく事になるのです。
上杉謙信が越後を統一したころ、隣国の信濃では武田信玄が急速に勢力を拡大していました。
北信濃の有力豪族である村上義清は、武田信玄に頑強に抵抗していました。
しかし1553年、遂に村上義清は信玄の攻撃に耐え切れず越後に逃走します。
この時から武田信玄と上杉謙信の因縁が始まったのです。
1553年9月、村上義清に助けを求められた上杉謙信は川中島に向けて出陣します。
これが第一次川中島の戦いです。
北条高広は、この戦いで武田信玄の器量、強さを初めて感じ取ったのかもしれませんね。
1554年、武田信玄は北条高広に親書を送り、武田家へ寝返るように促します。
北条高広は前述で紹介したように毛利氏の一族で、名門意識が強かった可能性があります。
武田家は甲斐国の守護の家柄であり、謙信の長尾家は越後の守護代の家柄です。
家柄だけを見ると武田家の方が格上ということになります。
更に北条高広は家中一の粗忽者(おっちょこちょい)と言われていたので、そのあたりも関係していたのかもしれません。
かくして、北条高広はこの誘いに乗ってしまいました。
この裏切りに対して、ライバル関係にあった安田景元はすぐに謙信に報告します。
同族でありながら、安田景元との仲は最悪だったのでしょう。
噂を聞いた上杉謙信は、柿崎景家や宇佐美定満といった信頼ある武将に北条城を監視させ、自ら兵を率いて鎮圧に向かったと言われています。
この攻撃に対し北条高広は必死に防戦しましたが、翌年降伏し再び謙信の軍門に降りました。
ちなみに、北条高広は武将としての器量に優れていたと言われていて、「器量・骨幹、人に倍して無双の勇士」と一部の資料には記載されています。
上杉謙信の軍団が現れると、北条高広の武名は大きく轟いたとも言われています。
このように非常に優秀であった北条高広という人材を失うことは、謙信にとっても痛手であったのだと思われます。
今回の謀反に際して、上杉謙信は北条高広を許したのです。
この後、許された北条高広は謙信の下で奉行として活躍していきます。
そしてこの10年ほど後、更に重要なポストを与えられることになっていくのです。
1559年には柿崎景家、斎藤朝信らとともに政務奉行を行っていたようで、謀反後も要職について上杉家を支えていきます。
1561年の関東出兵では、息子である北条景広や斎藤朝信らと共に参陣しています。
関東出兵では北条氏康の居城、小田原城を包囲するも武田信玄の計略により謙信は越後に引き返します。
そしてこの後、第四次川中島の戦いが勃発してしまうのです。
川中島の戦いの中でも最も激戦となったこの戦いで、北条高広は謙信の本陣を守備したと言われています。
そしてこの戦いの後、上杉謙信は武田家では無く北条(ほうじょう)家に対して本腰を入れて動き始めるのです。
関東の入り口付近には重要な拠点として厩橋城という城が存在していました。
上野(現群馬県)の中間辺りに位置するこの厩橋城は、北条家、武田家に対する最前線であり最重要な拠点の一つでした。
ちなみに上杉謙信が関東に出陣する際、必ずこの城を経由したもと言われています。
関東出兵の後、この城は謙信の寵愛する河田長親が城主を務めます。
その後、河田長親は沼田城に移ることとなり、その後釜として北条高広が厩橋城主に就いたと言われています。
上杉謙信は、一度裏切ったことのある北条高広にこの最重要拠点を任せたのです。
北条高広はそれほど優秀で、人徳のあった人物だったのだと思われます。
関東の動静を謙信に伝える重要な役割を与えられた北条高広は、緊迫した情勢下で武田、北条の攻撃に備えていたようです。
しかし1566年、上野国に激震が走ります。
武田信玄が2万を超える大軍勢で上野の箕輪城を攻め始めたのです。
またこの年の3月、下総国(現千葉県の一部)の臼井城の戦いで上杉謙信は北条氏康に敗北し、関東諸将の信頼を失っていました。
このため、上野国の有力者である由良成繁をはじめ、東上野の多くの武将が北条家へ寝返ってしまっていたのです。
周囲が敵だらけとなってしまったこのような状況の中、北条高広は再び謙信を裏切ります。
北条高広は今度は北条家へ寝返り、謙信に大打撃を与えることになってしまいました。
謙信は関東における最重要拠点を奪われ、出陣するのもままならないほどのダメージを受けたと言われています。
しかし1569年、情勢は大きく変化します。
武田信玄が北条氏康と敵対関係になると、北条氏康は上杉謙信との同盟を模索し始めます。
そして上杉謙信と北条氏康の同盟が成立すると、北条高広は上杉家へ帰参を許され、三度上杉家へ仕官することとなったのです。
1574年、北条高広は息子の北条景広に家督を譲り隠退します。
1578年に上杉謙信が亡くなると仏門に入って出家をし、菩提を弔ったと言われています。
しかし、ここで事件が起きます。
謙信は生前に家督の跡継ぎを決めていなかったため、養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督争いが起きてしまったのです。
この時、北条高広は上杉景虎側に立って戦いました。
理由は色々考えられます。
一つ目としては、父親である高定が上杉景勝側として活動していたところ、上杉景虎側に加担していると勘違いされ殺されてしまったという経緯もあります。
二つ目としては、1566年の謀反と同様に上杉家より北条家の方が居心地が良く、北条家にゆかりのある上杉景虎を支援したくなったという可能性もあります。
三つ目としては、越後の上杉景勝を支援すると関東の上杉景虎を支援する北条家に自国の領土である上野の地を攻撃されてしまう可能性がありました。
これらの理由によって上杉景虎に味方したと考えられています。
ちなみに息子である北条景広は上杉景虎側の総大将ともいえる立場にあり、景虎側として奮戦します。
しかし1579年、北条景広が奇襲に合い呆気なく亡くなってしまうと、上杉景虎側は総崩れとなってしまいます。
その後、上杉景虎本人も味方に裏切られ自害して果てます。
内乱は上杉景勝勝利で幕を閉じたのです。
北条高広はこの敗戦によって再び上杉家を去り、今度は武田勝頼の傘下に入ったと言われています。
1582年、武田家が滅亡すると今度は織田信長の家臣である滝川一益の傘下に入ることとなりました。
しかし、その3か月後に織田信長が亡くなると今度は再び北条家に加担します。
この時、上野の一部の領地は武田家臣であった真田昌幸が収めていました。
北条家は真田昌幸に対して北条高広に攻撃を行うように命じます。
ところが、北条高広はこの命令を拒否し、逆に北条側を攻撃したと言われています。
この動きに激怒した北条氏直、北条氏邦は1583年9月、北条高広が守る厩橋城を攻撃し降伏させたのです。
北条家に牙を向いた北条高広は、晩年は越後に戻り余生を過ごしたと言われています。
しかし、旧領を回復することは無く、北条(きたじょう)家は没落してしまいました。
北条高広が亡くなった時期については不明ですが、1587年頃ではないかと言われています。
享年71(仮)。
いかがでしたか
北条高広は、生涯を通して裏切り続けた人生だったと言えると思います。
しかし、彼は単純におっちょこちょいで短慮あったため、有力者に誘われるとその甘い言葉に乗ってしまう愛されキャラだったのかもしれません。
だからこそ上杉謙信は許し続けたのかもしれません。
また、自分が見ている戦国時代を扱うゲーム実況者さんも、北条高広については面白おかしく視ているように感じます。
どの時代でも愛され続けるキャラクターなのかもしれませんね。
今回は裏切りを続けても愛され続ける北条高広についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~