今回は上杉謙信に見初められた武将河田長親についてみていきたいと思います。
恐らくほとんどの方がこの武将についてご存じないと思います。
実際私も名前を知っていたぐらいで、詳しい事績については調べて知ることになりました。
調べていくうちに上杉家の中でも少し変わった経歴を持っていることがわかりました。
それは謙信に突然召し抱えられたというところです。
武田家でいうところの高坂昌信のような感じかもしれません。
今回は上杉謙信を支え、上杉家に忠義を示した河田長親についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
河田長親は1543年頃近江国(現滋賀県)に住む河田元親という人物の子として産まれます。
上杉謙信の本拠地は越後(現新潟県)なので、全く関係性が無いように見えると思います。
謙信と河田長親の出会いは、1559年の謙信上洛の際になります。
当時の謙信を取り巻く情勢について少しお話させていただきます。
1548年謙信は越後の内乱を収める救世主として、兄の長尾晴景に代わり当主となりました。
その後、上杉謙信は武田信玄、北条氏康などとの戦に忙殺されます。
謙信は対外的に厳しい状況になる事を察知し、越後の支配権を確かなものとするために動き始めます。
越後守護代の家系である上杉謙信は、幕府にお墨付きを得るために上洛する事を決意するのです。
そして1559年、二度目の上洛の際に二人は出会うことになりました。
この上洛の折、謙信は近江にある日吉大社に参拝した時に一人の若者を発見します。
その人物が河田長親でした。
この若者を謙信は即座に気に入り、越後に連れて帰ってしまうのです。
その後、河田長親は謙信の側近として活躍します。
謙信が厚い信頼を寄せている直江景綱や謙信の軍師とも言われる本庄実乃とともに奉行職を歴任していくのです。
この事から河田長親がどれだけ重要なポストに配置されていたかがわかると思います。
こうして運命的な出会いをした河田長親は更に大活躍していく事になるのです。
1561年、上杉謙信は関東への出兵の際に関東管領上杉家の名跡を継ぎ、上杉性を正式に名乗り始めます。
この時、謙信の母親である虎御前の実家と思われる古志長尾家の上杉景信も上杉性を名乗り始めます。
そこで、上杉謙信は新たに古志長尾家の名跡を河田長親に継がせることとしたのです。
仕官して2年ほどで謙信の母親の実家の当主になってしまうのです。
しかし、河田長親は長尾性を名乗る事だけは断固として辞退したと言われています。
流石にこの異例の速さでの出世を憚ったのだと思います。
河田長親は上杉景信から古志郡栖吉(すよし)城を譲り受け、上杉景信は謙信の居城である春日山城に出仕したと言われています。
その後、河田長親は謙信による関東出兵で北条氏康との戦に駆り出されます。
1560代前半から後半にかけては上野(現群馬県)の厩橋城や沼田城を任され、北条家との戦に備えています。
ちなみに、この後厩橋城に入ったのが北条高広になります。
1568年頃になると謙信と北陸方面の一向一揆勢との戦が本格化し始めます。
越中の国人領主である椎名康胤が上杉謙信から離反し、武田信玄に応じたために越中の動きが加速したのです。
この越中方面の総指揮官を任されたのが河田長親でした。
河田長親は、本拠地の古志郡の栖吉衆を引き連れて魚津城に入り、魚津城主に任命されます。
しかし、椎名康胤と一向一揆勢らとの戦は一進一退で決着は容易にはつきませんでした。
1571年、武田信玄は織田信長、徳川家康を討つための西上作戦を確実に遂行するため、更に上杉謙信の動きを封じます。
それが加賀一向一揆と椎名康胤による反抗作戦でした。
この戦いで河田長親は手痛い敗北を喫します。
しかし、武田信玄が西上作戦中の1573年に死去すると状況は一変します。
戦意を失った一向一揆と椎名康胤は、上杉謙信の軍の投入もあり、河田長親率いる上杉軍に敗北してしまいます。
河田長親はこの勝利によって越中松倉城の城主となり、更に重要な仕事を任されることになるのです。
1576年、織田信長は急速に勢力を拡大し、北陸方面に進出してきます。
そこで、謙信はこれまで敵対してきた一向一揆と和睦をして対抗しました。
翌1577年、信長と完全に敵対関係になった謙信は、能登にある堅城として有名な七尾城を落とすことに成功します。
ちなみに、この七尾城は謙信の包囲に1年以上も持ちこたえた最高クラスの堅城です。
七尾城を落とした上杉勢は、織田家との国境沿いである手取川まで進軍します。
この戦いが後に有名な手取川の戦いになります。
手取川の戦いでは謙信が信長に圧勝し、信長の戦意を挫くことなったのです。
この時、河田長親は進撃する謙信とは別行動をし、手取川の戦い前後で七尾城を受け渡されています。
ところが、翌1578年の3月に謙信が急死してしまいます。
この謙信の死によって上杉家中は分断され、御館の乱と呼ばれる内乱に発展してしまうのです。
この時、河田長親は越中で織田勢と対峙していました。
謙信の死を知った織田信長は、河田長親に調略を仕掛けて上杉家を背くように誘ったと言われています。
しかし、河田長親はその申し出を断り、上杉家への忠誠を示したのです。
河田長親は上杉家の家督争いにおいて、最初は中立を保つ姿勢を見せました。
河田長親本人は、最初から謙信と血縁関係にある上杉景勝に付きたかったのかもしれません。
ところが、先代の古志長尾家当主の上杉景信や、妻の父親である北条高広が上杉景虎側についたことで様子を見らざるを得なかったのだと思われます。
ちなみにこの家督争いでは上杉景勝側が勝ち、上杉景信は敗死しています。
一方越中では織田家の攻撃が加速していました。
謙信の死後、河田長親は織田家との戦に追われていて、飛騨から攻め寄せる織田軍に手を焼いていました。
飛騨から越中に侵攻する織田軍の斎藤利治(斎藤道三の末子)は、河田長親を月岡野という地名まで引き付けて壊滅寸前まで打ち破ります(月岡野の戦い)。
この戦いは上杉軍に対して、織田軍の優勢を決定づけてしまった戦いとも言われています。
そして1581年、河田長親は越中松倉城で病死してしまいます。
織田家の柴田勝家、佐々成政らと戦っている最中の出来事でした。
享年39。
ちなみに、この後越中国を任されたのが上杉家で大身を果たした須田満親でした。
須田満親も非常に優秀な武将でしたが、厳しい戦いに巻き込まれることとなるのです。
いかがでしたか。
河田長親は謙信に見初められて急に重用された武将です。
河田長親が上杉家に仕官した後、近江に住む河田一族はこぞって長親の出世にあやかろうと越後に移住してきたと言われています。
この事からも謙信にどれだけ重用されていたかわかると思います。
河田長親はたった一代で上杉家の重臣まで上り詰めた逸材であったのは確かだと思います。
今回は謙信に突如召し抱えられて出世した河田長親についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~