今回は上杉四天王筆頭であり上杉家最強と言われる猛将柿崎景家についてみていきたいと思います。
柿崎景家は大河ドラマなどで上杉謙信が登場する場合、側近として登場することがあります。
柿崎景家は上杉謙信の先鋒として常に戦場を駆け回っていました。
武田信玄の家臣でいうところの山県昌景と同じような立場なのかもしれません。
柿崎景家のことを「猪突猛進」というイメージを持っている方も多いと思いますが、実は外交官として非常に重要な役割を果たしています。
それでは上杉謙信を支えたキーパーソンの一人、柿崎景家についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
柿崎景家は1513年、越後の国人領主である柿崎利家の子として産まれたと言われています。
この時代の越後は、守護の上杉家と守護代の長尾家が幾度となく戦をしていて、分裂状態にありました。
越後の守護上杉定実は、上杉謙信の父親である守護代長尾為景と対立していましたが、求心力を失っていて劣勢を強いられていました。
1536年、上杉定実の弟と言われている上条定憲は、越後北部の国人豪族集団である揚北衆や上杉守護家の家臣であった宇佐美定満などを味方につけ反乱を起こします。
この時、柿崎家の柿崎景家は長尾為景では無く上条定憲側に付きます。
柿崎家の領地は長尾家の春日山城と上条定憲の上条城の間に位置する場所で、難しい決断に迫られていました。
長尾為景と上杉定憲は今の新潟県上越市にある三分一原で対陣し、大きな合戦となってしまいました(三分一原の戦い)。
柿崎景家はこの戦で最初は上条側として参陣していましたが、戦が始まると長尾為景側に寝返ります。
ちなみにこの戦が柿崎景家の初陣だと言われています。
柿崎景家の裏切りにより上条側大混乱となり、上条定憲は討ち死にしたとも言われています。
しかし、長尾為景もこの戦で大打撃を受け、地域の安定化のため隠居を余儀なくされています。
為景は家督を長男の長尾晴景に譲ることになりました。
これは名目上の隠居であり、実権は為景が依然として保持していました。
柿崎景家はこの初陣で長尾為景に非常に信頼されるようになり、重臣として活躍してくことになるのです。
1540年頃この越後の内乱を鎮めた長尾為景でしたが、上司にあたる上杉家には表立って逆らうことなど出来ませんでした。
そこで上杉定実に子供が居ないことを好機とみて、他国から養子をもらうように取り計らいます。
これが後に越後天文の乱といわれる分裂を招いてしまうのです。
詳しい話は割愛しますが、越後天文の乱とは奥州の伊達家の当主伊達稙宗の三男・時宗丸を上杉定実の養子にするかどうかで二分した内乱です。
ちなみにこの時宗丸は後の伊達実元で、伊達政宗の側近で有名な伊達成実の父親にあたる人物です。
長尾為景は当初養子を迎えることに積極的でしたが、伊達家が軍事介入してきた事で拒絶の姿勢を取ります。
ここで養子を支援するものと、養子を拒絶する勢力で二分してしまったのです。
柿崎景家は1542年、伊達家に赴き養子を迎える準備をしていたとも言われています。
長尾家に信頼された柿崎景家は、この後上杉謙信と出会い上杉家最強の武将として活躍していく事になるのです。
この後長尾為景は亡くなったとみられますが、家督を継いだ長尾晴景は元々病弱で求心力に欠けていました。
この内乱を鎮めるために晴景が起用したのが弟である長尾景虎(後の上杉謙信)でした。
この後長尾為景は亡くなったとみられますが、家督を継いだ長尾晴景は元々病弱で求心力に欠けていました。
この内乱を鎮めるために晴景が起用したのが弟である長尾景虎(後の上杉謙信)でした。
上杉謙信は1543年、父親である長尾為景が亡くなるとすぐ元服して長尾景虎と名乗り戦場に繰り出します。
そして翌年の1544年、周辺の豪族が当主になった長尾晴景を侮って、上杉謙信の入っていた栃尾城に攻め寄せてきます。
この攻撃に対して、上杉謙信は逆に奇襲を用いて相手を壊滅させてしまいます。
更に1545年、反乱を企てた黒田秀忠を降伏させ、内外に武威を示すこととなりました。
これらの武功によって、越後の各地の国人たちが上杉謙信を長尾家の新しい当主として擁立しようと画策し始めます。
1548年上杉家の当主である上杉定実の調停により、上杉謙信は長尾晴景の養子となることで家督を譲られ当主となったのです。
柿崎景家の妻は黒田秀忠の娘だった関係上、謙信に抵抗するように誘われたようですが、この誘いには乗らずに柿崎景家は謙信のもとに馳せ参じています。
柿崎景家は長尾為景、上杉謙信と趨勢を見極めることに長けていたのかもしれませんね。
こうして柿崎景家は謙信の宿老として謙信のそばで常に活躍していく事になるのです。
ちなみに1561年、上杉謙信が関東管領職を就任する時には斎藤朝信とともに太刀持ちを務めています。
これは上杉謙信がどれだけ柿崎景家を信頼しているかわかるエピソードの一つです。
上杉家において柿崎景家は300騎持ちの大将として重きをなし、内政面では斎藤朝信とともに奉行職に就いて重要な施策などを行っていきました。
特に1569年の北条家との同盟締結においては、柿崎景家が同盟交渉の担当をしたと言われています。
実際に柿崎景家は自分の息子である柿崎晴家を上杉方の人質として北条家に送り込んでいます。
また、上杉謙信が家督を継いだ後も家臣たちは反乱を起こしたり、命令を聞かなかったりすることが度々あったようです。
しかし、柿崎景家は一度として謙信に逆らった形跡は見当たりません。
柿崎景家の謙信への忠義のほどがわかるかと思います。
このように柿崎景家は武将としても政治家としても優秀で、謙信を常に支えていく存在だったのです。
そして、1574年柿崎景家は亡くなったと言われています。
享年62。
柿崎景家の死については諸説あり、織田信長と内通をした疑いで謙信に殺されたとも言われています。
柿崎景家と言えば川中島の戦いの話無しには語れません。
川中島の戦いにおける柿崎景家の雄姿について最後にお話させていただきます。
まず川中島の戦いが起きた経緯についてです。
川中島とは長野県と新潟県の県境に流れる千曲川流域の一部の地域を指します。
1561年に起きた第4次川中島の戦いが一般的に「川中島の戦い」と言われている戦いとなります。
最も激戦となった川中島の戦いです。
第4次川中島の戦いは上杉謙信が北条討伐のため関東に出兵していた時、武田信玄が川中島周辺の地域に侵攻したことによって起きました。
武田信玄は北条家と同盟していたこともあり、上杉家の勢力を今以上に広げさせるわけにはいきませんでした。
そこで上杉謙信が関東に出兵している隙をついて川中島を攻めさせたのです。
しかし、調略を駆使しても上杉家の面々を取り込めないと感じた武田信玄は決戦に挑む決意をします。
信玄は一度兵を引き上げ、謙信が川中島に現れる時を待つことにしました。
謙信は関東出兵を切り上げて越後に戻り、川中島へ出陣します。
謙信もまた信玄との決着を待ちわびていました。
謙信は武田家の領内にある妻女山に陣を敷きます。
武田家領内に陣に敷くことで退路を断たれる恐れもありました。
実際に武田信玄は退路を断って包囲をしますが、何日経っても謙信は動きません。
そこで武田信玄は川中島一帯の中間に位置する海津城に入り機会をうかがいます。
しかし、それでも謙信は動こうとしませんでした。
武田信玄はいつまでたっても動かない謙信を見かねて積極策に打って出ます。
武田信玄は夜陰に乗じて別動隊12000を妻女山に向かわせ、謙信を平野に追い落とす作戦でした。
その謙信を平野に追い出したところを信玄率いる本隊と挟み撃ちにするというシナリオです(啄木鳥戦法)。
しかし、この動きを察した謙信は夜のうちに川中島の平野に降りていました。
信玄率いる本隊8000と謙信率いる13000で戦いが始まってしまったのです。
少し長くなりましたが、この先鋒を任されたのが柿崎景家でした。
数で劣勢である武田信玄本隊は柿崎景家に押され続けます。
その最中で武田信玄の弟である武田典厩信繁は討ち死にします。
更に武田軍のこの作戦を考えた山本勘助も柿崎景家の隊の郎党に討たれたと言われています。
結局この川中島の戦いは、武田家の別動隊が戻ってきてからは武田軍が優勢になり引き分けに終わっています。
この武田信繁の死によって武田家の運命は少しずつ狂い始めたとも言われています。
当時最強と言われていた武田軍をここまで追い詰めた柿崎景家は非常に優秀な武将を断言することが出来ると思います。
いかがでしたか
柿崎景家は上杉軍の先陣を務め、最も謙信に信頼されrていた家臣の一人です。
柿崎景家には「越後の二天」「上杉四天王」という別名もあるくらいです。
ちなみに、柿崎景家の死後、柿崎景家の息子である柿崎晴景は北条家に人質として入っていたこともあり、御館の乱で上杉景虎側についてしまいます。
そして、柿崎晴家は御館の乱が始まると春日山城内で謀殺されてしまったと言われています。
上杉家の重臣の家柄になった柿崎家ですが、謙信の死後には全く違う立場になってしまうんです。
少し、いやかなり悲しい事実ですよね・・・。
今回は上杉家最強の武将の一人である柿崎景家についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~