• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 

 今回は2020年大河ドラマで駿河(現静岡県)の大大名として登場する今川義元についてみていきたいと思います。


今川義元については「信長にやられた人」「信長に討たれた無能な人物」と思っている方がいると思います。


しかし、それは全力で否定したいと思います。


今川義元には師匠であり軍師である太原雪斎という人物がいます。


「太原雪斎が居なければ今川義元なんて」と思う方もいると思います。


そういう一面も確かにあるかもしれませんが、それだけなら太原雪斎が死んだ途端今川家が崩れたはずです。


どの時代でも信長の引き立て役になってしまう今川義元について今回はみていきたいと思います。


ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~

坊主から当主へ

 今川義元は1519年に今川氏親と氏親の正室である寿桂尼の間に産まれます。


今川義元は氏親の5男として産まれたため、幼少期には仏門に出されていたと言われています。


幼少期の今川義元は今川氏親から教育係に指名された太原雪斎と共に修行に明け暮れていました。


1526年、父である今川氏親が亡くなると、長男である今川氏輝が当主になります。


しかし1536年、今川氏親は病弱であったこともあり24歳で亡くなってしまいます。


更に次男である今川彦五郎も何故か今川氏輝と同日に亡くなるという奇妙な事件が起こり、今川家は不穏な空気に包まれました。


そこで5男である今川義元にも当主の権利が回ってきたと言われています。


今川家には今川氏親の側室の間に産まれた3男である今川良真という人物がいました。


この二人の間で家督争いが起き、後にこの争いは花倉の乱と呼ばれることになります。


本来であれば兄である今川良真が当主になるべきですが、側室の子ということで正室の子である今川義元に話が回ってきたそうです。


今川良真は母方の父親である福島(くしま)正成という今川家の重鎮が支援していました。


しかし、今川義元は正室である寿桂尼や太原雪斎、近隣の武田信虎の援助などもあり次第に優勢なっていきます。


追い詰められた今川良真は城から逃れるときに自害したと言われています。


ちなみにこの時敗れた福島正成の息子が北条家で有名な北条綱成です。


このような経緯で表舞台に全く出ていなかった今川義元が今川家の家督を継ぐこととなったんです。

隣国との勢力争い

 これまで今川家はは主に3つの国との勢力争いを行っていました。


東の北条家、北東の武田家、西の織田家になります。



まずは北東の武田家についてです。


家督を継いだ今川義元はまず花倉の乱で支援してくれた武田家と同盟を結びます。


今川義元は武田家当主、武田信虎の長女である定恵院と婚約します。


更に武田信虎の跡継ぎになる武田晴信(後の武田信玄)に縁戚関係にある三条家から娘を嫁がせます。


これで武田家とは固い婚姻同盟で結ばれることになります。



次いで北条家です。


北条家では当時武田家と争っている関係上、今川家が武田家と結ぶことを敵対行為とみなしました。


そこで駿河東部にある河東という地を北条家が攻める事態に発展してしまいます。


一時的にですが今川領内が北条家に奪われる形になってしまいました。


しかし1541年、北条家の北条氏綱が亡くなると北条家の敵である山内上杉家が北条家に攻勢をしかけます。


その隙をつく形で領土を奪い返すことに成功します。



そして最後に、生涯の敵になる織田家についてです。


1540年、織田家の織田信秀が西三河(愛知県東部)の拠点である安祥城を奪い取ると、今川家は争い始めます。


三河を支配していた松平家は1535年、当主の松平清康を失って弱体化していました。


その松平家の救援要請に応え、今川義元は1546年から本格的に織田家と争うことになりました。


1547年、松平家の当主になっていた松平広忠が、人質として息子である松平竹千代(後の徳川家康)を今川家に送り届けることになっていました。


しかしこの時事件が起こります。


今川家の家臣が裏切り、逆に織田信秀に松平竹千代を渡してしまったんです。


そして更に事件が起きます。


1549年、松平家当主の松平広忠が家臣に暗殺されてしまいます。


松平家はこの事件以降、完全に今川家に従属する形になってしまいます。


勢力を拡大した今川義元は1549年、織田家の西三河の拠点である安祥城を奪い返すことに成功し三河を支配することになりました。


ここまでが1550年頃までの3国との関係についてになります。

東を盤石にして西へ そして桶狭間へ・・・

 これまでの経緯をざっくり話させていただきました。


今川義元は大きな大名なので、細かく話すと話すことが沢山あるので、一部割愛して書かせていただいています・・・


1550年奥さんである定恵院が亡くなります。


そして西側では1552年、ライバルであった織田信秀も亡くなります。


後を継いだのはご存じ織田信長です。


この隙をついて本来なら西に攻め込みたいですが、武田家との縁組である奥さんの死があったため、武田家との更なる縁組を模索し始めます。


1552年、今川義元の娘の嶺松院を武田信玄の跡継ぎである武田義信に嫁がせることとなったのです。


そして東を盤石にするため、因縁のある北条家とも和を結びます。


今川義元の息子で跡取りの今川氏真に北条氏康の娘である早川殿を娶らせます。


このことによって1554年、今川家、武田家、北条家による3国同盟が成立したんです。


いわゆる甲駿相三国同盟になります。


これで東側に盤石な体制を築いたと思った今川家に衝撃が走りました。


1555年、今川家の最高顧問で今川家の全てに関わってきた太原雪斎が亡くなってしまったんです。


今川家にとってこれ以上の不幸は無かったと思います。


しかし、西へ領土拡大を図るお膳立てをしてくれた太原雪斎の意思を継ぎ、再び織田家に戦をしかけます。


1558年には15歳になった徳川家康に指示して三河国の一部を攻めさせていたようです。



そして1560年、桶狭間!!・・・と言いたいところですが、少しだけおまけの話をさせてください。


1553年、今川家の勢力拡大に伴って亡き父親である今川氏親が定めた今川仮名目録(今川家の法律のようなもの)に追加事項を定めます。


それは今川家はもう足利将軍家の家来ではなく、勝手に介入することは許さないという内容でした。


これは足利将軍家に対する反逆ですが、自らの土地は自分で守るという戦国大名として前に進んだとも言えます。


このようにして今川家は勢力を拡大し、天下への野心を見せていく事になったんです。

今川義元の最期

 それでは最後に1560年、桶狭間の戦いについてです。


今川義元は1560年5月、2万以上の大軍で尾張(愛知県の一部)に侵攻します。


織田信秀の後を継いだ織田信長も今川義元への対策として尾張の諸城に砦を築いて対抗していました。


織田方に囲まれていた大高城に徳川家康を向けて兵糧を運んだり、各砦を攻略させたりしていました。


そして各砦を落として、大高城に向かうため待機中の沓掛城から本隊移動させます。


その途中にある桶狭間山で休憩をしているところを織田信長率いる2000余りの手勢に襲われます。


当時は雨が降っていて、信長の軍が迫っている音が聞こえなかったのかもしれません。


そして乱戦になり、慌てた今川軍は劣勢を強いられます。


今川義元自身も戦ったと言われていますが、奮戦むなしく討ち取られてしまいました。


今川義元の首は織田方に取れていましたが、鳴海城に籠っている今川家の家臣である岡部元信が返還の要求を出します。


岡部元信は鳴海城の開城と今川義元の首の交換に応じて駿府に戻ったと言われています。

まとめ

 いかがでしかか


今川義元は当主になってから他国との勢力争いで勝ち続けています。


太原雪斎の手腕によるところが大きいですが、雪斎亡き後も織田方に攻勢を強めて更に勢力を拡大しています。


そして2万以上の大軍を編成出来ること自体が大将として有能であった証拠です。


ただ油断があったため、桶狭間で敗れてしまったんだと思います。


信長も後年、「まぐれで勝った」と言っていたそうです。


この「まぐれ勝ち」によって信長は時代の革命児の道を進むことが出来たんです。


もし義元が死んでいなければどのような歴史になっていたか想像してしまいますね。


今回は海道一の弓取りと言われ、天下に非常に近かった今川義元についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


コメント一覧

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