2020年大河ドラマに登場する人物で、明智光秀との関係が非常に深い武将がいます。
その武将が細川藤孝という人物です。
細川藤孝と言われても「良く知らない」という方が大半だと思います。
明智光秀の娘である細川ガラシャが嫁いだ人物が細川忠興ですが、その父親が細川藤孝です。
本能寺の変の際、明智光秀が真っ先に頼った男が細川藤孝だと言われています。
自分は細川藤孝について明智光秀関係である程度は知っていたつもりでしたが、後年についてはあまりわかっていませんでした。(笑)
調べれば調べるほど、この人物が世渡り上手であることがわかりました。
運が良いのか実力なのかこの人物は生涯出世をし続けます。
前置きはここまでにして、今回は光秀と関係が深く出世し続けた細川藤孝という人物についてみていきましょう。
ちなみに、上図は明智光秀の叔父の明智光安で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
細川藤孝は1534年、足利将軍家を支える申次衆(将軍の意見などを取り次ぐ役職)の一つである三淵家の次男に産まれます。
父の三淵晴員は和泉(大阪南西部)守護の細川元有の息子であり、細川家は足利幕府を支える超名門です。
日本人なら小学校で勉強する応仁の乱という事件を聞いたことがあると思います。
この乱の東軍の総大将になったのが当時細川家の当主であった細川勝元という人物です。
まわりくどかったかもしれませんが、細川藤孝は超名門の一族の出身なんです。
これらの事から細川藤孝の前半生は順調だったと思われますが、30歳を過ぎた1565年転機が訪れます。
藤孝が仕えていた足利将軍家の当主である足利義輝が突如謀反に遭い、松永久秀などによって殺されてしまいます。
この後、足利将軍家の取次の仕事をしていた藤孝は兄である三淵藤英などと次期将軍擁立に忙殺されることになっていきます。
将軍足利義輝には覚慶という弟がいました。
足利将軍家は代々将軍にならない男子を仏門に入れる風習があったため、覚慶も同様でした。
松永久秀などによって要注意人物だと思われていた覚慶は京都から奈良にある興福寺に幽閉されてしまいます。
これを知った細川藤孝などの幕府の側近衆は奈良から覚慶を脱出させることに成功します。
しかし、京都に戻ることは出来ず覚慶は各地の大名の元を転々としたようです。
1566年、この覚慶は将軍家を継ぐ決意をし足利義秋と名乗ります。この覚慶が後の足利義昭です。
そして、越前の朝倉義景を頼った時に出会ったのが明智光秀でした。
明智光秀は当時、明智家の没落に伴い越前に逃れていました。
足利義昭の将軍擁立に奔走し、苦しい立場にあった細川藤孝は光秀に共感めいたものを感じたのかもしれません。
教養人である光秀は足利義昭に気に入られ部下となり、細川藤孝と共に同じ道を進んでいく事になりました。
1568年、明智光秀の斡旋などもあり、遂に足利義昭は織田信長に率いられて上洛を果たします。
また細川忠興、ガラシャ夫妻が結婚式を挙げ新婚時代を過ごしたと言われている勝龍寺城もこの時奪還したと言われています。
この上洛以降、細川藤孝は光秀と同様足利義昭の家臣でありながら織田信長にも仕えるという立場にあり、今後重要な選択を迫られることになっていきます。
その後、足利義昭と信長の関係は長続きせず、各地の大名に信長を討つように書状を書きます。
遂に最強と名高い武田信玄の動員に成功します。
気が大きくなった足利義昭は1573年、信長に対して兵をあげます。
細川藤孝は他人を頼るばかりで自分で動こうとしない足利義昭に愛想が尽きたのかもしれません。
細川藤孝は足利将軍家を支える側近であるにも関わらず、明智光秀と共に足利義昭を見限り信長に付き従います。
これに怒ったのは細川藤孝の兄である三淵藤英でした。
三淵藤英は弟である細川藤孝をひそかに襲撃する計画を立てます。
しかしそれは失敗に終わり、逆に自分の居城を信長の大軍で囲まれてしまいます。
三淵藤英は降伏して信長に従いますが、翌年の1574年突如信長は三淵藤英に切腹を命じます。
兄は切腹し死んでしまいますが、細川藤孝は私情に流されず信長が死ぬまで織田家に忠義を尽くしました。
権力者に付く道を選んだのです。
その後、藤孝は明智光秀の与力として各地の合戦に参加し武功をあげていきます。
1578年、信長の勧めにより息子である細川忠興と明智光秀の娘のガラシャが結婚します。
光秀と共にその後も活躍し続け、1580年には丹後南半国(現京都府の中央から北西部辺り)を与えられました。
順調に出世する藤孝ですが、遂にあの事件が起きてしまうのです。
1582年遂に盟友である明智光秀が信長に謀反を起こします。
かの有名な本能寺の変です。
信長を討った明智光秀は真っ先に細川藤孝に味方になるように要請します。
しかし藤孝はひたすら無視します。
理由を聞かれると、藤孝は「剃髪し、喪に服していて細川幽斎と名を改めて隠居しているため動けない」と突き放したと言われています。
これは今後の動向を探るため、細川藤孝が傍観したのではないか私は思っています。
私の推論はさておき、隠居した藤孝は本能寺の変後に光秀討伐に成功した豊臣秀吉に接近します。
文化人でもあった藤孝は、千利休など秀吉が重用している人物達と交流していき秀吉に気に入られます。
秀吉の世でも出世をしたのです。
光秀の領地だった丹後の一部が加増され細川家は12万石の大名になっていました。
そして1598年、天下人であった秀吉が亡くなります。
世渡り上手な藤孝は、次の天下人になるであろう徳川家康に接近していきます。
1599年には家康に使づいたことにより12万石から18万石に加増されたと言われています。
1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こる数か月前、息子の細川忠興は上杉征伐に向かった家康に付き従います。
その隙をついて大阪で石田三成が挙兵をしたため、藤孝の居城がある丹後の田辺城が危機に陥ってしまいます。大ピンチです。
細川家には忠興の主力軍が出兵中だったので、田辺城には藤孝を含め約500ほどの手勢しかいなかったと言われています。
そこを西軍の15000の大軍に包囲されます。
しかし、藤孝は約2か月間籠城をし続け、猛攻に耐え抜いたと言われています。
この大軍は田辺城に釘付けとなったため、関ヶ原の戦いの本戦には間に合わず結果的に東軍勝利に大きく貢献しました。
この働きと息子忠興の活躍もあり、細川家は39万石に加増されることとなりました。
将軍亡き後、放浪を経ての大出世となったんです。
その後は悠々自適な生活を送ったと言われています。
1610年、77歳でその生涯を閉じました。
いかがでしたか
細川藤孝は時の権力者達を理解し、うまく利用することで世を渡りぬきました。
私は正直、あまり細川藤孝を好きではありません。
個人的にですが、自分の利にだけ動いている気がするんです。
足利義昭や明智光秀らに生涯尽くせをは言いませんが、歩み寄ろうと努力しているようには感じないんです。
自分の知識不足でそう感じるかもしれないですが・・・
みなさんはこの細川藤孝という人物についてどのように感じたでしょうか。
今回は明智光秀に関係深い人物である細川藤孝についてお話させていただきました。
他の記事でも歴史上の人物について勝手に語っています(笑)。興味のある方は是非他の記事も見ていただけると嬉しいです~
ではでは~