今回は上杉謙信の幼少期の軍師とも言われる本庄実乃についてみていきたいと思います。
本庄実乃と言えば、上杉謙信が登場する大河ドラマで直江景綱と共に謙信の側近として描かれることが多いと思います。
本庄実乃はかの有名な本庄繁長と同じ一族とも言われ、幼少期の謙信をひたすら支えていきます。
混乱していた越後で上杉謙信を当主に担ぎ上げた主要な人物の一人でした。
つまり、謙信の器量に惚れ込んで崇拝した一人と言えるでしょう。
それでは謙信を崇拝し支え続けた本庄実乃についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
本庄実乃は1511年、越後の古志郡栃尾城城主の本庄慶長の子として産まれます。
冒頭でも述べましたが、本庄実乃は武勇の誉れ高く数々の武勇伝を持つ本庄繁長と同族であるとみられています。
本庄家は代々「長」という一字を受け継いでいるので、父親の本庄慶長もその一人であったと言えるでしょう。
本庄実乃が産まれた頃、越後では謙信の父親である長尾為景が勢力を拡大してきていました。
そこで、上杉謙信が登場する以前の越後の情勢について少しみていきましょう。
1530年頃、越後はでは守護の上杉家と守護代の長尾家が幾度となく戦をしていて、分裂状態にありました。
越後の守護上杉定実は、守護代長尾為景と対立していましたが、求心力を失っていて劣勢を強いられていました。
そこで、1536年上杉定実の弟と言われている上条定憲は、越後北部の国人豪族集団である揚北衆や上杉守護家の家臣であった宇佐美定満などを味方につけ反乱を起こしたのです。
長尾為景と上杉定憲は今の新潟県上越市にある三分一原で対陣し、大きな合戦となってしまいました(三分一原の戦い)。
結果的には上条定憲は討ち死にし、長尾為景が勝利したと言われています。
しかし、長尾為景もこの戦で大打撃を受け、地域の安定化のため隠居を余儀なくされています。
そこで、為景は家督を長男の長尾晴景に譲り、領内の安定を図ったのです。
これは名目上の隠居であり、実権は為景が依然として保持していました。
1540年頃、この越後の内乱を鎮めた長尾為景でしたが、上司にあたる上杉家には表立って逆らうことは出来ませんでした。
そこで上杉定実に子供が居ないことを好機とみて、他国から養子をもらうように取り計らったのです。
これが後に越後天文の乱といわれる分裂を招いてしまうのです。
詳しい話は割愛しますが、越後天文の乱とは奥州の伊達家の当主伊達稙宗の三男・時宗丸を上杉定実の養子にするかどうかで二分した内乱です。
ちなみにこの時宗丸は後の伊達実元で、伊達政宗の側近で有名な伊達成実の父親にあたる人物です。
長尾為景は当初養子を迎えることに積極的でしたが、伊達家が軍事介入してきた事で拒絶の姿勢を取ります。
ここで養子を支援するものと、養子を拒絶する勢力で二分してしまったのです。
この後長尾為景は亡くなったとみられますが、家督を継いだ長尾晴景は元々病弱で求心力に欠けていました。
そこでこの内乱を鎮めるために晴景が起用したのが弟である長尾景虎(後の上杉謙信)だったのです。
1543年、上杉謙信は兄晴景の名代として栃尾城に入ります。
内乱鎮圧の拠点として栃尾城は重要な拠点とみられていたのです。
栃尾城主であった本庄実乃は、謙信の入城に際して器量を見極めていたのかもしれません。
翌年の1544年、病弱な長尾晴景を侮った越後の豪族が謀反を起こします。
15歳の謙信を若輩と軽んじた近辺の豪族は栃尾城に攻めよせたのです。
しかし、謙信は少数の城兵を二手に分け、一隊に敵本陣の背後を急襲させたのです。
謙信は混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させることで壊滅させることに成功します。
上杉謙信は謀反を鎮圧することで初陣を飾ったのです。
この戦いで謙信を補佐役となったのが本庄実乃でした。
この時本庄実乃は、初陣で華麗な戦ぶりを見せた謙信に惚れ込んでしまったのかもしれません。
また、本庄実乃は謙信の若き頃の軍学の師とも言われています。
この戦を主導したのは謙信でしたが、助言をしたのは本庄実乃かもしれませんね。
その後も度重なる謀反を鎮圧した謙信は、越後の有力者たちにその実力を認められるようになります。
1546年、数々の武功を上げた謙信を見続けてきた越後の有力者たちは、兄である長尾晴景の変わって謙信を当主にしようと動き始めたのです。
その中心的役割を担ったのは長尾晴景に敵対的であった中条藤資と、北信濃の豪族で謙信の叔父でもあった高梨政頼という人物でした。
この動きに謙信の補佐役であった本庄実乃や与板城主の直江景綱が呼応して、一大勢力となったのです。
そして1548年、越後守護であり謙信の父に敵対的であった上杉定実の調停のもと、晴景は謙信をを養子とした上で家督を譲って隠退し、謙信は春日山城に入り家督を継いだのです。
こうして謙信の補佐役として活躍した本庄実乃は、謙信にますます重用されていく事になるのです。
幼少期から謙信を支え続け、師でもあった本庄実乃は謙信から絶大的な信頼を獲得していきます。
1556年、上杉家では家臣による領地争いが勃発し、家中が分裂する事態が起きてしまいます。
上杉家では本庄実乃と大熊朝秀という人物が家中の執政を主に担っていました。
この領地争いに本庄実乃と大熊朝秀は対立者同士を支援することになり、二派に分かれた家臣団の派閥対立に発展してしまったのです。
一度謙信の下でまとまった家臣団は、再び分裂の危機に瀕してしまいました。
この争いは武田氏や蘆名氏も巻き込んだ戦闘に発展してしまいます。
更にこの領地争いに上杉謙信は幻滅し、春日山城を出奔して出家を宣言して消えてしまったのです。
謙信の出奔を好機ととらえた大熊朝秀は、かねてから謙信に疑問を抱いていようで謀反を起こすことを決意します。
蘆名氏の軍勢と共に越後に攻め寄せた大熊朝秀でしたが、戦に敗れてしまいます。
そしてこの戦に勝利した家臣団は、出家していた謙信を発見し「以後は謹んで臣従し二心を抱かず」との誓紙を差し出して一連の騒動を治めたと言われています。
ちなみに、敗れた大熊朝秀は武田信玄の元に出奔し、以降は武田家で重用されて活躍していきます。
ライバルであった大熊朝秀が上杉家を去ったことで、本庄実乃は更に重用されていくこととなったのです。
以後本庄実乃は側近の一人であった直江景綱と共に、奉行職の多くを任され絶大的な権力を与えられていようです。
本庄実乃はその後も謙信の側近として活躍し、1575年に死去したと言われていています。
また、一説にはそれ以後も生き続け、1578年の謙信の死去の際に殉死したとも言われています。
謙信を崇拝し付き従った人生だったようです。
いかがでしたか
本庄実乃は戦で活躍した形跡はあまり無いようですが、謙信の側近で主に政務官として領国経営を任されていたようです。
謙信が栃尾城に入った瞬間から本庄実乃の人生は決まってしまったのかもしれませんね。
今回は謙信の側近で家中一の権力者にもなった本庄実乃についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~