今回は北条氏康の三男であり、北条家を滅亡させてしまった一人である北条氏照についてお話させていただきます。
北条氏照のことを知っている方は、秀吉に対する強硬派で頑固なイメージを持っているかもしれません。
しかし、必ずしもそうでないかもしれません。
北条氏照は様々な大名との外交を任されています。
外交を任されてそれを成功させている事実があるので、一概に強硬派とは言えないかもしれません。
戦においては常に最前線で戦っているので、そのようなイメージがあるのかもしれません。
今回は武勇に秀でて、外交力もあった北条氏照についてみていく事にしましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
北条氏照は1542年、北条家当主である北条氏康の3男として産まれます。
母親は今川氏親の娘で、今川義元と全く同じ血を引いている瑞渓院と言われています。
北条氏照が幼いころの1546年、関東の行く末を決める大きさ戦がありました。
この戦が河越夜戦と言われるもので、北条綱成などの活躍により北条家は大勝を収めます。
河越夜戦の結果、武蔵国(現東京、埼玉、神奈川県の一部)の有力豪族である大石定久が上杉憲政を裏切り北条側につくことになりました。
この大石定久の養子として選ばれたのが北条氏照でした。
父である北条氏康は着実に関東への影響力を高めており、関東支配の足掛かりとして大石家を取り込む必要があったのかもしれません。
1559年には正式に大石定久の娘を娶り、大石家の当主になったと言われています。
1562年には遂に北条氏照が戦での活躍を見せ始めます。
北条氏照は前年の上杉謙信の関東侵攻で寝返っていた三田氏を攻撃し始めます。
北に領地が接していたため、戦をせざるを得なかったのでしょう。
北条氏照は激しい戦と調略で見事に三田氏を滅ぼすことに成功するのです。
北条氏照は若年でありながら見事な武勇を見せつけました。
三田氏の領地を併合した北条氏照は新たな本拠として滝山城を構築して移り住んだと言われています。
この滝山城は後に激戦地となりますが、その話はあとで詳しくお話します・・・。
このように北条氏照は父の関東支配の足掛かりとして今後も期待に応えていく事になるのです。
北条氏照は更に活躍を広げます。
この後の1564年には里見家との国府台合戦にも参加し功を立ってたと言われています、
1565年には下総(現千葉県)の関宿に出陣したりと戦に追われる毎日だったようです。
また1567年以降には北条綱成に代わって他国との外交も担当することになりました。
その前にあたる1562年には下野(現栃木県)にある佐野氏との外交を行っており、このことが父親に高く評価されたのかもしれません。
1569年には、武田家との関係破談に伴って上杉謙信とも交渉を行っています。
この時、上杉謙信との同盟を締結させ、弟である北条三郎(後の上杉景虎)を越後(現新潟県)に人質として送っています。
その他には奥州にいる伊達政宗や蘆名家、たびたび敵対する古河公方足利家との交渉も担当していたと言われています。
そして1569年、関係破談になった武田家が北条家に攻め込んできました。
この時、北条氏照は廿里(とどり)という場所で迎え撃ちます。
現在の八王子市廿里町という場所です。
武田勢は約2万の軍勢で攻めてこようとしていました。
それとは別に武田家は別動隊である小山田信茂が兵1000で領内に侵入しようとしてきました。
この部隊だけでもやっつけておきたかった氏照ですが、逆に奇襲にあい多くの犠牲を出してしまいます。
当時の武田家は最強と言われていたので致し方ないのかもしれません。
この敗戦により、武田家は北条氏照の居城である滝山城に攻めてくることになってしまいました。
北条氏照は完膚なきまでに負けてしまい、落城寸前にまで追いやられてしまいます。
しかし、武田勢は突如として居なくなります。
元々武田信玄は北条家の居城である小田原城を包囲して、内外に武田の強さをアピールすることが目的でした。
そのため、武田信玄はすぐに城攻めを止め引き上げました。
九死に一生を得た北条氏照は、今回の事で城の大事さを痛感し、後に八王子城という城を構築して本拠を移したと言われています。
更に武田勢は小田原城を包囲して4日後、戦を止め甲斐に戻るそぶりを見せました。
このやりたい放題な武田信玄の行動に北条氏照は怒り、追撃してしまいます(三増峠の戦い)。
しかし、またしても戦に敗れてしまった北条氏照は武田信玄の恐ろしさを実感することになったんです。
1571年、武田家との戦が終わらないまま父である北条氏康は亡くなります。
父は亡くなる直前、「上杉家を見限り武田家と再び同盟を結ぶように」と言い残したと言われています。
北条家は上杉家と同盟を結びましたが、軍事同盟としては全く効力を持たなかったため、見切りをつけたのではないかと言われています。
また当時最強と言われた武田家を敵にするのも得策ではなかったのかもしれません。
新しく当主になった兄の北条氏政は、すぐに父の遺言を実行します。
北条氏政は上杉家との同盟を破棄し、武田家と再度同盟を締結します。
その後、武田信玄が1573年に亡くなり、周辺諸国の情勢も少しずつ変化してきていました。
1574年、北条氏照は武田の脅威が無くなったため、本格的に関東を攻め始めます。
まず以前に攻め落とすことが出来なかった下総の関宿城を攻め落とします。
更に1575年6月、北条氏照は下野の榎本城を攻撃し落城させています。
順調に版図を広げていく北条家ですが、1578年上杉家に大きな事件が起きてしまいます。
軍神と言われ長年の仇敵である上杉謙信が急死したのです。
以前上杉家と同盟を結んだ際に、北条氏照の弟である上杉景虎が人質として越後に送られていました。
上杉景虎は謙信に実の息子同然に可愛がられていて、謙信の養子となっていました。
謙信には姉の子である上杉景勝も養子として預かっていたため、この両者で家督争いが起きてしまったのです(御館の乱)。
北条家は当然縁者である上杉景虎を支持し、越後に介入します。
北条氏照は弟の北条氏邦と越後の入り口にあたる坂戸城の攻略に乗り出します。
しかし、冬に近づくにつれて進軍が厳しくなり、北条氏照、北条氏邦は部下を配置し撤退してしまいます。
この翌年、北条家の支援が不十分なまま、上杉景虎は家臣に裏切られ自害したと言われています。
この時、武田家を継いでいた武田勝頼は当初北条家との同盟により上杉景虎を支持していました。
ところが、武田勝頼は上杉景勝からの金銭的な見返りなどもあり中立を保つことになってしまいました。
これを裏切りと見た北条家は再度武田家との同盟を破棄し、武田家と敵対していく事になるのです。
1579年、武田との同盟が手切れになると北条家は織田信長に接近し始めます。
1579年9月、北条家の外交を担当している北条氏照は、信長の安土城に使者を出します。
この時氏照は、部下に安土城の様子を聞いてヒントを得ます。
新たな城の構想です。
そこで、北条氏照は武田信玄に攻められた滝山城に代わる新たな城、八王子城を作り始めます。
1581年には城は完成していて北条氏照は八王子城に移り住んだと言われています。
そして1582年、時代は大きく変わり始めていました。
1582年3月、北条家とも縁を切ってしまった武田家は、織田徳川連合軍に攻められ追い詰められ滅亡します。
そして、その3か月後の1582年6月には織田信長が本能寺の変によって亡くなってしまいました。
北条家にとっては大きなチャンスだったのかもしれません。
元々武田家の領国であった甲斐、信濃(現長野県)は無法地帯となってしまったんです。
この混乱に乗じて、北条氏照は当主になっていた北条氏直とともに上野国(現群馬県)に侵攻し、織田家の家臣である滝川一益を破り領土を広げています。
また、織田信長に代わり急速に勢力を拡大していた人物がいました。
その人物こそ北条家の命運を握ることになる豊臣秀吉でした。
北条家は元々、一代目となる伊勢新九郎(後の北条早雲)が下克上によって当主になった家柄です。
二代目の北条氏綱は関東の民を従えるためには名前を変える必要があると考えていたようです。
そこで鎌倉時代に関東で大きな権力を握っていた北条家の苗字をもらい、北条と名乗っていました。
このような背景から、北条家の方々は家柄に誇りを持っていたのかもしれません。
北条家では農民から成り上がった豊臣秀吉を卑下していたと言われています。
しかし、1590年頃になると豊臣秀吉は天下人と言われるようになっていて、秀吉に対抗的な大名は北条家と伊達家の伊達政宗ぐらいになっていました。
北条家の北条氏政は秀吉からの再三にわたる上洛の要請を無視し続けます。
そして、ついに戦になってしまうんです(小田原征伐)。
北条氏照は外交を担当していたため、諸国の情勢を良く理解していたはずです。
ところが、北条氏照は秀吉を嫌ったためか、徹底抗戦を主張したと言われています。
北条氏照は戦が始まると部下に八王子城の守備を任せて、自分は北条家の本拠である小田原城に入って籠城したと言われています。
しかし、秀吉の大軍勢の前では多勢に無勢でした。
北条氏政は黒田官兵衛などの説得に応じて降伏しました。
この戦の後、北条氏照は主戦派であったため、秀吉に開戦の責任を咎められて切腹します。
兄である北条氏政も切腹し、ここに北条家は滅亡してしまうことになりました。
北条氏照、享年49。
いかがでしたか。
北条氏照は強硬派のイメージが強く、北条家を滅亡させてしまった武将だと思っている方も多いと思います。
確かに北条氏照の最後については意地とプライドがありました。
しかし、秀吉に敗れるまでの北条氏照は外交に携わっていた事もあり、決して頑固なだけでは無いと気づくと思います。
北条氏照は強い誇りを常に持っていた武将なのかもしれません。
今回はプライドに散った北条氏照についてお話しさせていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは〜