今回は北条家の中でも穏健派と言われる一人の北条氏規についてお話させていただきます。
北条氏規と言われてもほとんどの方がその存在も知らないかと思います。
確かに北条氏規は、北条兄弟の中でも突出した事件などを起こしていないと思います。
しかし、北条家の中で明治期まで大名として生き残ったのは北条氏規ぐらいです。
彼は先見の明があったようで、誰と敵対し、誰と友好を築くべきかを知っていたように感じます。
また、幼いころから徳川家康と顔見知りだったこともプラスになったようです。
それでは、北条家随一の穏健派である北条氏規についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
北条氏規は1545年、北条氏康の4男として産まれます。
母親は北条氏康の正室である瑞渓院になります。
当時の北条家の西側には武田信玄、今川義元という強大な大名が存在していました。
そこで1554年頃、武田家、北条家、今川家で同盟が結ばれます。
世にいう甲相駿三国同盟です。
この同盟にあたって三国ではお互いに婚姻同盟を進めていました。
その一環として、北条氏康は娘である早川殿を今川義元の長男である今川氏真に嫁がせます。
しかし、早川殿はまだ幼少で子供を儲ける年齢ではなかったので、北条氏康の4男である北条氏規が人質として今川家に送られました。
この時、今川家の本拠地である駿府(現静岡県東部)には松平家の次期当主で後の徳川家康も住んでいました。
北条氏規も駿府館のその一角に住んでいたと考えられています。
一説にはなりますが、北条氏規と徳川家康の居住地は隣であったとも言われています。
お互いに人質の立場であった二人は、互いに友情を深めていったことは容易に想像できますね。
年代から考えても幼少期から青年期にかけて共に過ごしたようなので、もしかしたら人質時代の親友であったのかもしれませんね。
しかし、1560年に事件が起きます。
今川義元が織田信長に敗れて亡くなってしまったのです。
徳川家康はこれを好機ととらえて今川家から独立して大名の道を突き進みます。
北条氏規はというとその後しばらく今川家に人質として滞在し、1562年から1564年頃の間に北条家に戻ったと言われています。
この徳川家康との幼少期での出会いは、後の北条氏規にとって大きな意味を持つこととなるのです。
実家に戻った北条氏規は北条家最強の武将である北条綱成の娘を娶ります。
1567年には、この関係から北条綱成が支配していた三浦部(現神奈川県横須賀市などその周辺一帯)という領地を引き継いでいます。
三浦(三浦半島の先端に位置する場所)という場所は海に面しているということもあり、北条氏規は北条家の海軍を担当していたと言われています。
また、三浦には三崎城という重要拠点があり、その城に移り住んだようです。
当時、三崎城の東の房総(現千葉県)には里見家という大名が存在していて、長年敵対関係にありました。
この場所を任されたことからも北条氏規は非常に信頼されていたことがわかるかと思います。
そして1568年、また大きな事件が起きます。
同盟関係にあった武田信玄が今川家の弱体化に乗じて駿府に攻め寄せてきたのです。
これに父である北条氏康は激怒します。
長年の同盟関係を解消し武田家と戦う道を選びます。
1569年、武田家と敵対したことで武田信玄が北条家の領国に攻め込んできてしまいました。
そこで北条氏康は北条氏規に伊豆方面の守備を担当させます。
北条氏規はかつて北条早雲が拠点にした韮山城を守備することとなりました。
韮山城は後の秀吉との戦でも10倍の敵を数か月にわたって耐え切った城であり、平山城でありながら防御に非常に適した城だったようです。
武田信玄はそのことを熟知していたようで、韮山城の無理な城攻めをしませんでした。
北条氏規はこの韮山城にも助けられ、伊豆を守備することが出来ました。
その後、北条氏規は本拠になっていた三崎城に戻り、1577年には里見家に攻撃を仕掛けます。
里見家の領国である房総では長年の北条家との戦で疲弊していました。
その状況を見極めて北条家は里見家に戦を仕掛けたようです。
北条氏規は海軍を率いて海路から攻撃を仕掛けます。
当時の里見家では当主である里見義弘と弟である里見義頼が対立していて、その隙をついた形でした。
領国の疲弊、里見家内部での対立によって戦をする余裕のなかった里見家は北条家との和睦を提案します。
この提案を北条家当主になっていた北条氏政は受け入れ、同盟関係を築くことになりました。
この後、北条家が滅亡するまで里見家と北条家は友好関係を維持していく事になります。
三浦半島、房総などの地域は安定して平和になり、交易も盛んになったと言われています。
北条氏規は戦に参加にしたものの、自分の領内の三浦に平和をもたらしたのです。
そしてこの後、この平和はなかったかのように時代は大きく変わっていく事になるんです。
そして5年後の1582年、周辺の状況は一変し始めます。
1571年、父である北条氏康は、遺言として武田家と再度同盟をするように言い残し亡くなりました。
この遺言に従い、北条氏政は武田家と再度同盟します。
しかし1579年、上杉家の内乱に武田家が北条家の味方とならなかったため、北条家は再び武田家と縁を切ります。
このような状況の中、1582年織田、徳川連合軍が武田家領内に侵攻してきます。
北条家もこの動きに呼応して、武田家の駿河に侵攻します。
この総大将が北条氏規だったと言われています。
その後武田家は滅亡し、その3か月後には織田信長も本能寺の変で亡くなります。
この機に北条家は織田家、徳川家の領国となっていた旧武田領に戦を仕掛けます。
北条氏規は徳川領になっていた駿河を攻めましたが、攻略は出来ませんでした。
この混乱の状況の中、織田家跡継ぎ候補の織田信雄、織田信孝が和睦の勧告があったようで、徳川家と和睦します。
この北条側の交渉役が北条氏規だったと言われています。
そして、この頃西側では織田信長に代わり豊臣秀吉が大きな力を持ち始めていました。
各地の大名が秀吉に臣従を従う中、大大名になっていた徳川家康も秀吉に臣従します。
徳川家康は上洛をして豊臣秀吉の軍門に降ることとなりました。
しかし、北条家は非常にプライドの高い武家集団だったようで、農民出身の豊臣秀吉には一切従おうとしませんでした。
そんな中、徳川家康を通して秀吉への上洛を求めた際に窓口になっていたのが、北条氏規です。
この際、徳川家康から北条氏規への書状が多数現存しているようで、徳川家康自身がどれだけ北条氏規を信頼していたかがわかると思います。
北条氏規は北条氏政に代わって何度も上洛し、秀吉と直接数度に渡って交渉をしています。
しかし1589年、北条家は秀吉が大名による私闘を禁止した惣無事令違反を行ってしまいました。
北条氏政は秀吉が何度上洛を要請しても無視し続け、更に秀吉の命令にも違反してしてしまったのです。
そして、遂に秀吉は動き始まてしまいます。
北条氏規は何度も北条氏政に臣従するように進言しましたが、受け入れられなかったようです。
秀吉と戦わず北条家を存続させたい北条氏規ですが、北条家の一門として「戦わない」という選択肢はありませんでした。
北条氏規は武田信玄の時と同様に韮山城で伊豆方面の守備を任されました。
豊臣秀吉の軍は織田信雄を総大将として4万の大軍で韮山城を包囲します。
北条氏規は3640余の軍勢でこれを迎え撃ったと言われています。
相手は10倍以上の軍勢であったが、北条氏規は4か月以上にわたってこれを防いだと言われています。
しかし、北条家の城が次々と落とされていく中で北条氏規は選択を迫られます。
北条氏規は徳川家康と、豊臣秀吉の軍師である黒田官兵衛による必死の説得で降伏する道を選びました。
北条家に忠義を示しながら、無謀な戦いだと理解している北条氏規にとって、とても辛い選択だったに違いありません。
北条氏政、北条氏直親子もその後秀吉に降伏し、小田原城を開城しました。
そこでこの戦において誰が首謀者かということになり、降伏に前向きであった北条氏直、北条氏規は許され高野山に蟄居することになりました。
しかし、兄であり主戦派であった北条氏政、北条氏照は切腹処分になってしまいます。
切腹を行う当日、兄弟二人の介錯を行ったのが北条氏規でした。
そして、二人の介錯を行った後、自身も切腹しようとしたところを友人である徳川家康に止められたと言われています。
美談ですよね・・・。
その後、北条氏規は北条氏直に付き従い高野山に向かいます。
氏規、氏直はそれぞれ翌年には許され、河内国(現大阪府東部)に領地を与えられます。
ところが、北条氏直は心労によるためか翌年の1591年に病死してしまいます(疱瘡による病死とも言われています)。
そこで、北条氏直の領地は北条氏規の息子である北条氏盛が遺領の4000石を継ぐことになりました。
これは北条氏盛が北条氏直の亡くなる前に、養子になっていたためでした。
そして1594年、北条氏規は更に加増され狭山城主となったのです。
これは秀吉への忠誠心と徳川家康による計らいであると考えられます。
関東ではありませんが、関西の小さな領地で北条家は復活したことになりました。
北条家は明治維新までこの地の領主として君臨することになったのです。
それから6年後の1600年2月、豊臣家の石田三成と徳川家康の対立が深まる中、北条氏規は亡くなったと言われています。
享年56。
いかがでしたか
北条氏規は北条家の兄弟たちの中ではあまり目立たないと存在だとは思いますが、人間としては一番魅力的だと自分は思います。
北条家の先を考え、生き残るためにはどうするべきかを真剣に考えていたのが北条氏規だと思います。
徳川家康は信頼できる人物であるからこそ、何度も北条氏規に書状を送っていたのかもしれません。
また、兄弟を自分の手で介錯しないといけない気持ちは計り知れません。
北条家を愛し、強い悲しみに襲われていた北条氏規を私は嫌いにはなれません。
人間味あふれるこの武将を私は好きになってしまいました。
今回は北条家の行く末を案じ続けた北条氏規についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~