今回は北条家の中でも気性が荒く、血の気が多い北条氏邦についてお話させていただきます。
北条氏邦というと攻撃的で過激なイメージをお持ちの方が多いと思います。
確かにその通りです。
しかし、それだけではないのかもしれません。
彼が亡くなった時、葬儀に集まった参列者はひと山を超えるほどであったと言われています。
自分の親族にまで手をかけてしまう北条氏邦ですが、実際は人徳があったのかもしれません。
今回は北条家の過激派である北条氏邦についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
北条氏邦は1548年、北条氏康の5男として産まれます。
北条氏邦が産まれた頃、周辺諸国の情勢は変化しつつありました。
1546年、北条家は河越夜戦により上杉家を壊滅に追い込み、周辺国の要人などが北条家に降るようになっていました。
その一人が武蔵北部の最有力の国衆である藤田氏の当主、藤田康邦でした。
北条家ではその土地に根付いている要人を取り込むことで、円滑に領土を拡大していきました。
北条氏邦はこの藤田氏の養子になることで、武蔵北部の支配を行っていきます。
ちなみに兄である北条氏照も武蔵守護代の大石家の養子になっていました。
1558年、北条氏邦は正式に藤田氏を継いで当主になりました。
その2年後の1560年、北条氏邦はまだ幼少だったこともあり、上杉謙信の猛攻によって本拠である天神山城を落とされてしまいます。
しかし、武田信玄の助けもあり上杉謙信を越後に追い返すことに成功します。
ここで、領国を踏みにじられた北条氏邦は本拠を変えることを考え始めたのかもしれません。
1564年には藤田康邦の娘を娶り、名実ともに武蔵北部を支配していきました。
そして1568年、隣国の武田家から衝撃的なニュースが届きます。
長年同盟関係にあった武田家が、同じく同盟関係にあった今川家を攻撃し始めたのです。
武田、今川と三国同盟を締結していた北条氏康は当然のように怒り、武田家との同盟を解消します。
そこで北条氏邦は、武田家を牽制する目的で本拠を鉢形城に移し、武田家を迎撃しようと考えたのです。
このように北条氏邦は兄である北条氏照と同様に、地元の豪族を取り込むことで領国支配を確固たるものにしていきました。
そして、遂に当時戦国最強と言われていた武田信玄との戦を迎えてしまうのです。
1569年、遂に武田信玄は北条家の領土に攻め込んできます。
信玄はまず、武蔵北部に位置する北条氏邦の鉢形城と攻撃し始めます。
武田信玄の目的は北条家へ武勇を見せつけ、内外に武田家の強さを見せつける事でした。
そこで、武田信玄は北条家の居城である小田原城をターゲットにします。
その過程の最初の城が鉢形城だったと言われています。
小田原城にすぐに向かいたい信玄は、鉢形城の守りが固いと判断し攻撃を中止します。
そして、武田信玄は北条氏邦の兄である北条氏照が守っている滝山城を攻めるために南下します。
武田信玄は当時戦国最強と言われていたように、巧みな攻撃によって北条氏照を追い込んでいきます。
兄である北条氏照は信玄に惨敗します。
しかし、信玄の目的は当初から小田原城であったため、滝山城の攻撃をすぐに中止し小田原に向かいます。
そして、武田信玄は小田原城に着くと城を包囲して城下に火を放ち、数日後には包囲を解いて領国に帰ってしまいました。
これを契機と見た北条氏邦、氏照兄弟は合流をして、武田信玄を追撃することにしました。
武田信玄は後に徳川家康を誘き出して倒してしまった(三方ヶ原の戦い)事からわかるように、相手を誘い出して戦うことを得意としていました。
まんまと誘いに乗ってしまった北条氏邦、氏照兄弟は三増峠で武田軍に負けてしまいました(三増峠の戦い)。
話は少し戻りますが、北条家はこの戦いの少し前に武田家との同盟を破棄し、長年の仇敵である上杉謙信と手を結ぼうと考えていました。
この交渉を担当したのが北条氏邦と言われています。
北条氏邦は上野(現群馬県)方面を担当していたこともあり、適任だと考えられたのだと思います。
この上野が北条氏邦、北条家にとって非常に重要な意味を持ってきます。
詳しい内容については後程お話したいと思います。
話は再び戻りますが、武田信玄と戦いの後、武田家の脅威を感じた北条家は武田家と再度同盟を築くことになりました。
一方上杉謙信とは、武田家との戦いで同盟としての役割を果たしてくれなかったこともあり、再び敵対関係になってしまいました。
この後、北条氏邦は武田信玄に支配されていた武蔵の領地の一部を譲り受けます。
かくして北条氏邦は武蔵の国を盤石にし、上野の支配に乗り出していくことになっていくのです。
上野国の支配に乗り出した北条氏邦は、1576年に安房守と名乗るようになります。
安房守とはこれまで上野を守護してきた山内上杉家が、代々名乗っていた名前でした。
この名前を名乗ったということは、北条氏邦が上野の国主になったことを内外に示したことになります。
ちなみに、後に出てくる真田家当主真田昌幸も安房守を名乗っています。
そして1578年、長年敵対してきた上杉家で突然事件が起こります。
上杉謙信が急死してしまったのです。
北条家は以前に上杉家と同盟した際、北条氏邦の弟である北条三郎(上杉景虎)を人質に送っていました。
上杉謙信はこの上杉景虎を非常に可愛がり、養子として迎えました。
上杉謙信には他家を継いでいない2人の養子が居ましたが、生前に後継者を決めていなかったため内乱となってしまったのです。
北条家は上杉景虎の支援のために内乱に介入します。
北条家はまず足掛かりとして上野の要衝である沼田城を攻め落とします。
この攻撃を行ったのが北条氏邦、氏照兄弟でした。
北条氏邦は更に越後の入り口にあたる坂戸城を攻撃します。
しかし、この坂戸城の守備は固くなかなか落ちません。
北条氏邦が城攻めに戸惑っている間に時は過ぎてしまい、冬になっています。
越後の冬は厳しく、北条氏邦は撤退を決断します。
北条家は年を越して再度上杉景虎を支援しようとしましたが、それまでに上杉景虎は家臣に裏切られ自害してしまいました。
上杉家の内乱への介入は失敗となってしまったのです。
しかし、この内乱に乗じて上野国の最重要な要衝である沼田城は保持することが出来ていました。
上野支配を任されている北条氏邦にとっては「実りのある内乱」でもあったわけです。
しかしながら、この沼田城は北条氏邦が生涯に渡ってが苦悩する城となってしまうのです。
その一つが沼田城を奪取した後の城代についてでした。
当主となっていた北条氏政は、この城代に用土重連と金子康清という人物を任命します。
用土重連という人物は藤田康邦の長男であり、北条氏邦にとっては義理の兄弟にあたります。
この兄弟は仲が悪かったようで、北条氏邦は用土重連を毒殺してしまいます。
この事実を知らない北条氏政は、代わりの城代として用土重連の弟にあたる藤田信吉を任命してしまいました。
この事実を知っている藤田信吉は、後に武田家の真田昌幸の調略に乗り沼田城は武田家の城となってしまうのです。
そして1582年、武田家の滅亡、織田信長の死があった後も沼田城は真田昌幸の居城としてあり続け、北条家の目の上のたんこぶとなっていきます。
この沼田城をめぐる北条氏邦と真田昌幸の関係が後に重大な事件となってしまうのです。
1582年、織田信長の死後、北条氏邦は上野の侵入してきた滝川一益に攻撃を仕掛け壊走させます。
その後、徳川家康とも戦をしますが後に和睦をして、上野は再び北条家の管轄となっていきました。
この頃、西側諸国では豊臣秀吉が織田信長の後継者として破竹の勢いで勢力を拡大していました。
1589年、この頃になると豊臣秀吉に逆らうのは奥州の伊達政宗と北条家ぐらいになっていました。
豊臣秀吉は北条家の当主である北条氏政にこれまで何度も上洛を要請していましたが、氏政は無視し続けます。
そして、1589年10月に遂に事件が起きてしまうのです。
1589年7月に秀吉の仲介のもとで真田昌幸の沼田城がある沼田領内は、北条家が3分の2、真田家が3分の1の支配をすることに決まっていました。
この沼田領内は当然上野であるため北条氏邦が管理することになりましたが、北条氏邦は不満を持っていました。
1589年10月、北条氏邦の配下の猪俣邦憲が真田昌幸が支配している名胡桃城を調略によって奪い取ってしまったのです。
当時、豊臣秀吉は天下人と言われるようになっていて、諸国の大名間で戦を禁止する惣無事令を出していました。
この名胡桃城の攻防が惣無事令違反に繋がってしまったのです。
口実を得た豊臣秀吉は北条家に大規模な戦を仕掛けます(小田原征伐)。
北条氏邦はこの戦の原因を作ってしまったのです。
これまで見てきたように過激な行動の目立つ北条氏邦はこの戦において大規模な野戦を主張します。
しかし、この案は却下されて北条氏邦は居城である鉢形城に籠城することになりました。
北条氏邦は鉢形城に籠って戦いますが、相手の軍は圧倒的でした。
鉢形城を攻撃する豊臣軍の大将は前田利家で、35000と言われる大軍で攻めてきました。
北条氏邦は3000あまりの兵で対抗しますが、大砲を撃ち込まれて城兵の助命と引き換えに降伏します。
この時代、降伏をする場合には城主が切腹をし、その後城兵を助命するということが一般的でした。
秀吉は北条氏邦の切腹なしに降伏を受け入れた前田利家を叱りつけたと言われています。
この後北条家も降伏をし、主戦派であった北条氏政、北条氏照は切腹させられます。
しかし、この戦の原因を作り、最も主戦派であった北条氏邦は切腹にはなりませんでした。
これは前田利家の嘆願によるものだと言われています。
かくして命拾いをした北条氏邦は前田家の家臣となり1597年加賀の金沢で病没したと言われています。
享年50。
ちなみに、北条氏邦の息子である庄三郎は北条氏邦が亡くなると家督を継ぎ、かの有名な前田慶次の娘と結婚したと言われています。
いかがでしたか。
北条氏邦は義理の兄弟を殺してしまったこともあり、非常に感情的で粗暴な人間であるように感じてしまいます。
また北条家を滅亡に導いてしまった人物でありながら、切腹もせず責任も取らない人物であったと見ることも出来ます。
しかし、葬儀には大勢の方が訪れたことや、前田家の親族である前田慶次の娘を北条氏邦の息子に嫁がせるなど粗暴者ではありえない待遇を受けています。
もしかしたら、北条氏邦は自らが粗暴者であることをわざと示し、家臣領民の代弁をすることによって皆から好かれていたのかもしれませんね。
今回は苛烈な性格でありながら人に好かれた北条氏邦についてお話しさせていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは〜