今回は後北条家で赤の軍団を率いた武将北条綱高についてみていきたいと思います。
北条綱高というと信長の野望シリーズなどで北条家で赤備えを率いる猛将をいうイメージを持っている方も多いかと思います。
しかし、北条綱高についてはわかっていない部分も多く謎に包まれた武将の一人と言えるでしょう。
今回はこの謎に包まれた武将である北条綱高について、知り得た情報を元にお話させていただきたいと思います。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
北条綱高は1506年、北条家の家臣となっていた高橋高種の子として誕生します。
母親は北条早雲の養女となる外山豊前守の娘で、北条早雲は外祖父ということになります。
父親である高橋高種は筑後(現福岡県)大蔵高橋氏の当主となっていた人物で、かの有名な高橋紹運と同族ということになります。
仮に高橋家の当主である高橋高種が筑後にて活躍していれば、後の世に高橋紹運という武将は誕生していなかったかもしれません。
つまり、その子の立花宗茂や立花誾千代という夫婦も誕生していなかったということになります。
そこで、ここからは少し父親である高橋高種についてお話させていただきます。
高橋家の当主になっていた高橋高種はある日、継母の讒言により父の不興を蒙ってしまいます。
そこで高橋高種は1484年、当主の座を捨てて母方の縁者である加賀の畠山氏を頼ることとしたのです。
高橋高種は更に京都に上って室町将軍足利義尚に仕え、1487年に起きた長享・延徳の乱に参加しています。
そして1489年、将軍である足利義尚が病死すると母方の縁者である畠山政長の意向によって、堀越公方である足利政知に請われて伊豆国へと赴くこととなりました。
足利政知からは伊豆雲見城を与えられてその城主となったと言われています。
しかし1491年、その足利政知が死去すると堀越公方家は内紛を起こし、足利茶々丸が弟を殺害するなどしてその勢力は衰退の一途を辿ってしまいます。
堀越公方家の家臣となっていた高橋高種は伊豆雲見で蟄居していました。
そこに北条早雲の重臣である多目権兵衛が訪れ、北条早雲の下に来るように誘われます。
高橋高種は再三にわたる説得によって北条早雲の味方になる決意をし、伊豆平定における戦功を挙げたのです。
高橋高種はこの時の戦功で北条早雲の養女である外山豊前守娘を妻として向かい入れ、1506年に北条綱高は産まれたのです。
これが筑後高橋家の当主であった高橋高種が伊豆に土着し、北条早雲の軍門に降った経緯となります。
1506年4月、北条綱高は伊豆国雲見上ノ山城で生まれます。
父である高橋高種が北条綱高が10歳の時に亡くなると、外祖父である北条早雲に養育されたと言われています。
1519年正月に元服し、その年に外祖父である北条早雲は亡くなります。
身の丈は5尺5寸(168センチぐらい)と言われ、父親を誘った一族である多目氏に師事して伊豆国韮山に居住したと言われています。
ちなみに多目氏とは北条早雲の代に早雲に従った御由緒六家の一つで、北条家の重臣中の重臣です。
多目氏は北条氏康の軍師として河越夜戦で大活躍した多目元忠が有名ですね。
北条綱高は早雲の後を継いだ北条氏綱にも信頼され、扇谷上杉家との戦いで大活躍していくのです。
1524年、北条氏綱は扇谷上杉家の居城である江戸城攻略に眼を向けます。
北条氏綱は江戸城の創設者である太田道灌の孫の太田資高を調略したのです。
北条綱高は調略によって江戸城を奪い取られた上杉朝定を追撃し、大打撃を与えることに成功しました。
この功績によって北条綱高は相模国玉縄城代を任され、北条氏綱の猶子となり「綱」の1字と「北条」を名乗る事を許されました。
ここに高橋家の当主では無く、北条家の一門としての北条綱高が誕生したのです。
1534年、北条綱高は扇谷上杉家臣の難波田善銀が守る深大寺城を攻略します。
その3年後の1537年、綱高は弟の高橋氏高と共に深大寺城奪回に押し寄せた難波田率いる扇谷上杉軍と対峙します。
この時、北条綱高は武藏野の牟礼という場所に砦を築いて抵抗しました。
その間に北条氏綱の軍が河越城へ進軍したため、難波田勢は背後を脅かされて撤退します。
北条綱高はこの撤退する難波田勢を追撃し、多くの敵兵を討ち取り大勝したと言われています。
北条綱高は江戸城の追撃戦に続き、この戦いでも追撃戦を仕掛け扇谷上杉家に大打撃を与えたのです。
正に追撃の鬼というべき猛将ですね・・・。
この頃、北条綱高の武名は内外に轟いていたと考えられ「北条五色備の赤備え」として恐れられていたと思われます。
同年の1537年、北条綱高は江戸城の城主となり対扇谷上杉家を任されることとなったのです。
ちなみに、後の江戸城の城代は本丸に富永直勝、二の丸に遠山綱景、三の丸に太田康資が入っていて、第二次国府台合戦の原因にもなってしまいます。
城主はその更に上司にあたる役職なので、北条綱高は非常に辛い心境であったことは間違いないでしょう。
1546年、北条綱高は日本三大奇襲に入る河越夜戦にも参戦し、北条綱成らと共に上杉朝定、古河公方足利晴氏の連合軍と河越城で戦っています。
1554年10月には落髪し、龍山と号し龍雲斉と名乗っています。
この頃になると隠居の身であったと考えられます。
息子である北条康種は、1553年の今川家との戦いで功を上げているので、この戦いを見届けて隠居したのかもしれません。
そして1564年、江戸城の三の丸に居住していた太田康資が裏切り、第二次国府台合戦が勃発してしまいます。
この戦いに北条綱高も高齢でありながら参陣しています。
上記に記したように江戸城城代である富永直勝、遠山綱景らと同じく、負い目を感じていたのかもしれません。
1585年、北条綱高は江戸城でその長い生涯を終えます。
享年80。
いかがでしたか。
北条綱高がいかに優れた武将であったのか解っていただけたかと思います。
また、皆さんはこの北条綱高が立花宗茂に繋がっていた事に驚かれたのではないでしょうか。
北条綱高については資料が少なく、父親である高橋高種の話を多く書かせていただきました。
しかし、この記事で北条綱高の由来について知っていただければ、更に興味を持ってこの武将を見ることが出来ると思い記述させていただきました。
今回は北条家の赤の軍団の大将北条綱高についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~