• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 

 今回は北条家最強と名高い北条綱成についてお話させていただきます。


北条綱成といえば河越夜戦が有名だと思います。


もちろん河越夜戦なんて知らないという方も多くいると思います。


しかし、河越夜戦無しに北条綱成は語れません。


また北条氏康とは義兄弟であり同じ歳でもあったため、二人三脚で北条家を発展させたと言っても過言ではありません。


今回は北条家最強の武将である北条綱成についてみていきましょう。



ちなみに、上図はマニアックな武将で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~

北条氏康の義兄弟として

 

 北条綱成は1515年、今川家の重臣である福島正成の子として産まれます。


福島家は元々は今川家の家臣でありましたが、北条綱成は後に北条家に落ち延びる事になります。


北条家を頼った経緯なのですが大きく分けて二つほど説があるようです。


まず一つ目の説は、1521年に当時今川家の敵対していた甲斐(現山梨県)の武田信虎と戦になり、一族の多くが討ち取られてしまったというものです。


この時、武田家の家臣原虎胤に父親の福島正成を討たれ、北条家を頼ったと言われています。


二つ目の説は、1536年に今川義元が家督を継承する内乱である花倉の乱で、敗者となる今川義元の兄の今川良真を支持してしまったというものです。


今川良真は福島正成の娘を娶っていたため、福島家は今川良真を担がざるを得ませんでした。


しかし、敗れた福島正成は敗死し、息子である北条綱成が北条家へ落ち延びたというものです。


いずれにせよ、戦に負けて落ち延びたところを当時の北条家の当主である北条氏綱に救ってもらったということになります。


北条氏綱が北条綱成を気に入った経緯についてはわかりません。


しかし、北条氏綱は自分の「綱」という字を綱成に与え、更に自分の娘までも娶らせているのでどれだけ北条綱成に肩入れしていたかがわかると思います。


北条綱成は北条氏綱の娘と結婚したことで北条という苗字を名乗ることになり、破格の待遇で迎い入れられたことになったのです。


また北条氏綱の長男に北条氏康という人物がいました。


幼い頃の北条氏康は臆病者と揶揄されていた時期があったようです。


そのため北条綱成が当主になるのではとささやかれていたこともあったようです。


この後、1541年北条氏綱は亡くなります。


代わりに当主となったのが北条氏康でした。


この時北条家は敵対する勢力に四方を囲まれていました。


武田家、今川家、里見家、上杉家などの敵対する勢力が数多く存在していました。


この苦難を氏康と同じ年であり義兄弟である北条綱成は良く支え、北条家を関東の覇者に押し上げていく事になるんです。

キレンジャー 地黄八幡登場

 

 1542年、氏綱の三男である北条為昌が亡くなると後見役となっていた北条綱成は後を継ぎます。


形式上為昌の養子となることで玉縄城主となったようです。



また北条家では五色備えという5つの部隊がありました。


黄、赤、青、白、黒の5色に彩られた部隊です。


北条綱成はこの黄色の部隊を率いていました。


そして玉縄城主となっていた北条綱成は、武士の守護神でもある鶴岡八幡宮を厚く信仰していきます。


鶴岡八幡宮は玉縄城の近くにあることもあり北条綱成にとっては特別な存在だったのかもしれません。


北条綱成は黄色の旗指物に鶴岡八幡宮の「八幡」という文字を掲げて戦ったと言われています。


この事から北条綱成は地黄八幡と称されました。



1546年、周辺諸国と争っていた北条家は大きな戦を強いられます。


北条氏綱の時代に駿河(静岡県東部)で今川義元が家督を継ぐと、氏綱は義元に戦を仕掛けていました。


北条家はこの戦で駿河東部の一部で河東という地域を獲得していました。


逆に北条氏綱が亡くなり、北条氏康が家督を継ぐと今川義元はこの地の奪還を試みます。


今川義元が河東の地へ侵攻してきたということを聞いた北条氏康はすぐさま反応します。


しかし、今川義元は北条家の北東の国を支配している上杉憲政と通じていました。


関東管領という関東を収める役職のトップであった上杉憲政は、その権威で大軍を集め、北条家の河越城を包囲します。


上杉方は扇谷上杉家である上杉朝定、古河公方である足利晴氏などを招集し、合計約80000の大軍だったと言われています。


この戦が後にいう河越夜戦が始まりです。


北条家は絶体絶命のピンチを強いられる事になったんです。

河越夜戦 勝った勝った!!

 皆さんは日本三大奇襲という言葉をご存じですか。


戦国時代に特に有名であり、奇襲を用いた特異奇抜な合戦をそう呼びます。


1つは織田信長が今川義元を打ち破った桶狭間の戦いです。


そして2つ目が毛利元就が圧倒的な不利な戦況下で大逆転勝利をした厳島の戦いです。


最期の3つ目の戦いが今回紹介する河越夜戦ということになります。



この戦いで当時河越城に詰めていたのが北条綱成でした。


河越城には3000の兵が居ましたが、相手は20倍以上の数の相手で多勢に無勢でした。


この時、北条氏康は河東の地で今川義元と争っていましたが、急遽和睦することになりました。


甲斐の武田信玄を仲介者として今川義元に河東の地を譲り渡します。


和睦が成立した氏康はすぐさま河越城に救援に向かいます。


ここで北条氏康は河越城と連携を取るために、氏康の救援軍にいた北条綱成の弟である福島勝広を河越城の使者として送り込みます。


そこで北条軍の奇襲作戦を伝えたと言われています。


北条氏康はまず戦略として相手を油断させるために偽りの書状を出し続けることにしました。


「城兵を助命してくれれば城は明け渡します。綱成を助命してくれれば、今までの争いも和議の上、自ら下につき仕えます。」というような内容で、相手に自分は戦う意思が無いと見せつけています。


しかし、上杉連合軍はこれの申し出を拒否し、河越城付近まで軍を進めていた北条軍に攻撃を仕掛けます。


これに反応して北条氏康は戦わずに兵をいったん引き上げます。


この行動によって上杉連合軍は北条方の戦意が低いと勘違いしてしまい、兵力差もあり楽勝気分が漂ってしまいました。


全て北条氏康の作戦通りでした。


1546年5月19日の夜、北条氏康は自軍の兵8000を四隊に編成して、1隊のみを自分の部下である多目元忠に任せて残り3隊で奇襲を仕掛けます。


この時、北条氏康はすばやく奇襲を行うため、兵に甲冑を脱がせ身軽にさせたと言われています。


予想外の奇襲に動揺した上杉連合軍は大混乱に陥ります。


氏康自身も敵陣深くまで切り込みますが、戦況を見守っていた多目元忠は危険を察知し引き上げの命令を下します。


この機を北条綱成は見逃しませんでした。


北条綱成は戦力的に不利だった北条軍を更に鼓舞するため、「勝った勝った」と叫び続けながら城外に打って出たと言われています。


北条綱成の猛攻の前に上杉連合軍は壊滅し、死傷者の数はは13000~16000人であったと言われています。


この戦いで地黄八幡の旗は有名になり、北条家最強の部隊として認識されるようになっていきました。

戦国最強 武田信玄との戦い

 

 北条綱成はこの戦いでの大功によって河越城主も兼任する事になりました。


上杉連合軍の大軍を半年も耐え抜き、大勝利をした結果でした。


その後も数多くの合戦で北条綱成は活躍していきます。


例えば、1564年の下総(現千葉県)での国府台合戦では、奇襲部隊を率いて里見軍を壊滅させています。


しかし、注目なのは1569年からの武田信玄との戦いだと思います。


1568年、武田信玄は今川家と手切れをして駿府に攻め寄せます。


今川家と同盟関係にあった北条氏康は武田信玄との同盟を破棄し、武田信玄と戦を始めます。


そして1569年10月、北条家はまだ武田家との戦を続いており、武田信玄は北条家の本拠である小田原城を包囲しその4日後に包囲を解いて甲斐に戻るところでした。


この時、北条家は武田信玄が撤退する途中である三増峠で戦いが始まります(三増峠の戦い)。


この三増峠の戦いは戦国史上最大の山岳戦と言われています。


この戦いで北条綱成の鉄砲隊が活躍し、敵の指揮官である浅利信種を討ち取ります。


結果としては北条軍は敗退しますが、敵の指揮官を失った武田家も多くの犠牲があったと言われています。


北条綱成は当時戦国最強と言われていた武田家に一泡吹かせたことになりました。


しかし1571年、北条綱成は駿河東部にある深沢城で守備を担当していましたが、武田信玄の攻撃によって敗北してしまいます。


この時、北条綱成は有名になっていた地黄八幡の旗を多数置いて城を退去したと言われています。


これは北条綱成の晩年ゆえの失態とも、城兵を急いで退去させるための判断とも言われています。


この時、武田方の真田信伊真田昌幸の弟)の武功が大きかったと言われ、真田信伊がこの地黄八幡の旗を奪い取りました。


北条綱成の武勇にあやかろうとしたのか、真田信伊はこの旗指物を大事に保管していたようです。


この旗は現在でも長野県上田市にある真田宝物館に保管されているとのことです。


このように他国の武将でさえも北条綱成の武勇に憧れを持っていたのかもしれません。


この戦いの後の1571年10月、武田家との戦の最中に義兄弟である北条氏康は亡くなります。


北条綱成は義兄弟である氏康の死によって自身も隠居をし、晩年を過ごしたと言われています。


そして隠居して十数年後の1587年、北条綱成は亡くなります。


享年73。


北条家と豊臣家での確執が生まれつつある中での死でした。

まとめ

 

 いかがでしたか。


北条綱成がいかに勇猛な武将であったかは分かっていただけたかと思います。


彼は常に北条氏康と志を同じくして戦国の世を渡っていったのだと思います。


北条綱成の勇猛さもありますが、その忠義心も感心させられます。


外界と接触できず、常に敵が目の前にいる状況が半年間も続いたんです。


普通なら敵方に寝返っても仕方ない状況だと思います。


更に士気を落とすことなく大軍に向かっていった北条綱成の凄さがわかる感じがします。



今回は北条家最強の武将、北条綱成についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


コメント一覧

返信2019年12月17日 12:31 AM

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