今回は後北条家初代当主である北条早雲の三男で、北条家の大半を見届けた北条幻庵についてお話させていただきます。
北条幻庵というと北条家にあって常に長老的な役割を果たしたと感じている方もいるかと思います。
実際その通りなのですが、彼がどのような経緯で北条家の重鎮になったのかまでは知らない方が多いと思います。
北条幻庵は文化人としても知られているように、趣味を楽しみ人生を謳歌したようにも思えます。
今回は人生を謳歌し、北条家の一門の中で重要な位置に居続けた北条幻庵についてみていくことにしましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
北条幻庵は1493年、初代当主北条早雲の三男として産まれます。
この時代、国を治めるものは長男を家元に残し、それ以外の男子は仏門に入ることが一般的でした。
北条早雲も例外では無く、三男である北条幻庵はその習わしに沿って仏門に入ったと考えられます。
北条幻庵は幼いころ箱根にある箱根権現社の別当寺である金剛王院という寺院に入ります。
箱根権現とは関東武士の守護神として鶴岡八幡宮に次ぐ信仰を集めている社でした。
北条早雲は三男である北条幻庵を箱根の重要な社に置くことで、関東支配の正当性を主張したかったと考えられています。
1519年、自分の死期を悟った北条早雲は、息子である北条幻庵に4400貫という破格の所領を与えます。
これは破格の数字で、1559年の更に北条家が発展した後に書かれた「北条家所領役帳」によると、直轄武士の合計が64250貫と記録されていることから1割近くの領地を持っていたことになります(1559年には更に多く、北条幻庵は5457貫86文)。
どれだけ北条早雲が北条幻庵という人物を重要視していたかがわかると思います。
その後、北条幻庵は近江(現滋賀県)にある三井寺というところで修行を積みます。
そして1524年、再び箱根に戻り出家をして箱根権現の別当(寺の長官にあたる役職)になったと言われています。
ちなみにその前の年の1523年には、北条早雲に代わって当主になった北条氏綱が箱根権現を再造営しています。
北条家で破格の待遇を得た北条幻庵は、1538年頃まで別当として箱根権現を取り仕切ったと言われています。
箱根権現の別当を解任した後、北条幻庵は北条家が本拠を置いた小田原の一角の久野という場所に移り住み政務を行います。
お坊さんとして生きた北条幻庵は、この時から正式に武士として活躍することになるのです。
北条幻庵は、まだ箱根権現の別当時代の1535年、武士として合戦に参加します。
1535年8月には武田信玄の父親である武田信虎との戦である甲斐山中合戦、10月には扇谷上杉家の上杉朝興との戦である武蔵入間川合戦に一軍を率いて参加しています。
北条幻庵は武士としては馬術や弓術が得意であった言われています。
このように北条幻庵は武士としても活躍しますが、文化人としても活躍します。
弓術が得意であることからもわかるように、手先が器用であった北条幻庵は鞍や鐙を作りだします。
馬術を習っているうちに鞍や鐙の重要性に気づいてしまったのかもしれません。
北条幻庵は鞍鐙の名人と言われ、「鞍打幻庵」と呼ばれたそうです。
また趣味人であった北条幻庵は、木管楽器の一つである尺八作りも行いました。
尺八とはフルートに似た一種のようで自分で曲を作ったとも言われています。
その他には和歌や連歌も得意とし、北条家の菩提寺である早雲寺の庭園も自ら作ったと言われています。
このように芸術的な才能も持ちながら、古典的な教養も備えていた北条幻庵は当代一の文化人と言われるようになったのです。
1541年、兄である北条氏綱が亡くなり、甥である北条氏康が後を継ぎます。
北条氏康の後見を任された北条幻庵でしたが、1542年には甥である玉縄城主の北条為昌が亡くなったため為昌の三浦衆、小机衆を率いることになりました。
玉縄城については北条綱成が引き継ぎ、三浦衆については数十年後に北条氏規が引き継ぐことになります。
また武将としては1545年、今川義元に対抗するため、東駿河の長久保城に入って戦ったと言われています。
時は過ぎ1555年、還暦を過ぎていた北条幻庵は、長男である北条時長(三郎)に小机城の城主を譲ることにしました。
しかし1560年、その息子である北条時長が亡くなると、甥である北条氏尭を小机上の城主に任命しました。
更に北条氏尭が1562年に亡くなると、北条幻庵の次男である北条綱重に小机城を任せることとしました。
息子や親族が次々無くなる中、追い打ちをかける出来事が起こります。
1569年、武田家と北条家の対立が決定的となり戦が起こってしまったのです。
ここで駿河の蒲原城の守備に入っていた北条綱重が討ち死にしてしまい、更に三男である北条長順も討ち死にしてしまったのです。
この戦で2人の息子を同時に亡くしてしまったのです。
悲しみに暮れる北条幻庵ですが、すぐさま北条氏康の7男にあたる北条三郎(後の上杉景虎)を養子として小机城の城主に迎えます。
しかし、北条家は上杉家との同盟を模索していたため、人質として上杉景虎に白羽の矢が立ち越後に行ってしまうのです。
このため、北条幻庵は北条氏康の息子である北条氏光を小机城の城主にし、家督を北条綱重の子で孫である北条氏隆に譲ったのです。
親族や息子が次々と居なくなっていく状況に北条幻庵はどう思っていたのでしょうか。
既に70歳を超えていた北条幻庵にとってこれほど悲しい出来事はなかったのかもしれませんね。
そして1589年11月に北条幻庵は亡くなります。
この数か月後に北条家は秀吉によって滅亡することになります。
もしかしたらこれ以上親族が亡くなるのを見たくなかったのかもしれません。
享年97。
いかがでしたか。
北条幻庵は若くして良い収入を手に入れ、そして非常に長生きをしました。
現代でいえば完全なる「勝ち組」ということになりますが、あまりにも親族が次々と居なくなりすぎだと自分は感じました。
自分より長生く生きた息子たちは誰もおらず、悲しい晩年を過ごしたのかもしれません。
しかし、一方で趣味をたくさん持っていた北条幻庵は、人生を謳歌したとも言えると思います。
皆さんはこの北条幻庵の人生をどう感じるでしょうか。
今回は人生を謳歌し、悲しみに生きた北条幻庵についてお話しさせていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは〜