• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 

 今回は2020年大河ドラマで織田信秀の側近として活躍する平手政秀についてみていきたいと思います。


平手政秀と言われても、織田信長についてある程度知っていないとわからないというのが現状だと思います。


織田信長の幼少期が描かれるドラマなどがあれば、必ずといっていいほど登場する人物です。


織田信長生まれた時から彼の面倒をすべてみていた人物で、信長の父の織田信秀の側近中の側近だと考えられています。


信長に「じい」と呼ばれることが多い平手政秀ですが、どのような人生を歩んできたのか少しみていきましょう。


ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。

歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!

よろしければ見てください~

信長の後見人

 平手政秀が歴史上の文章で登場するのは1533年となり、平手政秀が40歳ほどの時になるようです。


当時既に織田信秀の重臣(家臣の中で特に信頼されている部下)であった政秀は、織田家の代表として京からきた公家の山科言継(やましなときつぐ)を接待したようです。


この時多くの大名と交流のある山科言継から、高い教養や人となりから称賛されたと言われています。


1534年、平手政秀は織田信長が誕生に伴い信長の後見人につきます。


跡取りの息子の後見人になることで、政秀は織田家でも強い発言力を持つようになっていきます。

斎藤道三、今川義元の対応に追われて・・

 当時、織田信秀率いる尾張(現愛知県西部)の国では、美濃(現岐阜県の一部)の斎藤道三、駿河(静岡県東部)の今川義元と争いが絶えませんでした。


1542年、斎藤道三の美濃乗っ取りに伴い、織田家は斎藤家と戦を開始します。


1547年、信長が斎藤道三との戦で初陣を果たしますが、この時後見人として信長に最後まで付き従っています。


そして、斎藤道三との戦に終わらせるため、斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)を信長に嫁がせる大役を担いました。


この婚礼を終始先導していたのが平手政秀だったと言われています。


また今川義元が1549年に西三河(現愛知県中部あたり)の織田家の拠点である安祥城が攻められたとき、援軍を率いたのが平手政秀だと言われています。


このように織田家の重要な局面で常に平手政秀は登場し、織田家を支えていたのです。

主君の死、そして・・・

 そして、今川義元と対峙中である1552年、主君である織田信秀は病死します。


主君で織田信秀の死に際して織田家では盛大な葬儀が行われました。


そこで信長は信秀の位牌に焼香を投げつけたと言われています。


その振る舞いを見た政秀は、当主になっても振る舞いを変えない信長を諫めたと言われています。


その後も信長が振る舞いを変えなかったこともあり、1553年、書を残して突如自害します。


平手政秀は己の死をもって信長の行動や振る舞いを正そうとしたと言われています。


自分を育ててくれた平手政秀の自害を知った信長は、その死を非常に悲しんだと言われています。


冷徹のイメージがある信長ですが、平手政秀の死後、政秀寺という政秀の名前がついた寺を建立し、菩提を弔ったと言われています。


この政秀寺は信長の師匠である沢彦宗恩が開山したと言われているので、どれだけ信長が政秀の事を想っていたかわかると思います。

まとめ

 いかがでしたか


織田家の中で平手政秀という人物がどれだけ重要であったか少しはわかっていただけたかと思います。


ちなみに政秀の死後、信長は政秀の末子である息子の平手汎秀(ひらて ひろひで)を非常に可愛がったと言われています。


しかし1572年、武田信玄との戦である三方ヶ原の戦いで平手汎秀は戦死してしまいます。


この時、織田軍を率いていた佐久間盛信を叱責し、このことが原因の一つになって後に佐久間盛信は追放処分になってしまいます。


どれだけ信長は平手家を特別に思っていたかわかると思います。



今回は織田信長の将来を最も心配した家臣である、平手政秀についてのお話でした。


それではまた次回の記事で!


ではでは~


コメント一覧

返信2019年12月17日 12:11 AM

織田信秀  尾張の虎と言われた男  今川義元、斎藤道三と渡り合った信長の父織田信秀とは・・・ – うたみのブログ26/

[…] 信秀が15歳の時に家督を譲ります。織田信秀は信長の傅役(教育係みたいなもの)となる平手政秀などの家臣に支えられながら領国経営をしていく事になります。まず織田信秀が目を付 […]

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