今回は同盟者であった信長を裏切り、朝倉家に忠義を尽くした浅井長政についてお話させていただきます。
浅井長政という人物を皆さんは知っているでしょうか?
大河ドラマなどを観られる方は織田信長関係で知っているかと思います。
浅井長政は戦国時代一の美人と言われた信長の妹のお市の方を娶りながら信長に立ち向かった人物です。
浅井長政は何故信長という有力者を後ろ盾にしながら裏切ったのか。
そして、何故信長に負けたのか。今回はその辺りを中心に浅井長政という人物について視ていきたいと思います。
ちなみに、上図は信長の父織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
浅井長政は1545年浅井久政の長男として南近江(岐阜県の一部)にある六角氏の居城である観音寺城下で生まれました。
浅井家は元々浅井長政の祖父である浅井亮介が、主家である京極家を下克上のような形で追いやって勢力を伸ばした家柄です。
浅井亮介は非常に戦が強くカリスマ性もありましたが、南の隣国に強力な大名六角氏が居ました。
当時の六角氏は六角定頼が当主の座についていました。
六角定頼は織田信長が後に行った楽市楽座を一番最初の行った名君でした。
また家臣の統制を行うため後の徳川幕府が行う一国一城令もこの六角定頼が最初に行ったものになります。
1542年、浅井亮介が死去し息子である浅井久政が後を継ぐと六角定頼は浅井家に対して攻勢を強めます。
浅井久政は合戦で負け領地の一部を失い、六角氏に臣従することになりました。
臣従の証として浅井久政の正室である小野殿が人質として出されていました。
小野殿は六角氏の居城である観音寺城に送られ、その城で浅井長政は生まれたということになります。
浅井長政もしばらくはこの観音寺城で育ったと言われています。
しかし1552年、名君であった六角定頼が死去し状況が変わっていきます。
浅井家の中では浅井久政の六角氏に対する弱腰に不満を抱いていた家臣も多くいたようです。
そして家臣の一部は浅井久政の息子である浅井長政に眼をつけ始めます。
その期待に浅井長政は見事に堪えていく事になります。
1559年、家臣団は当主である浅井久政を強制的に隠居させ、浅井長政を当主に担ぎました。
このクーデターの後の1560年、浅井長政は六角氏への臣従の証として六角氏の家臣である武将の娘を娶ります。
しかし婚姻を行った直後の1560年8月、浅井長政は15歳で軍を率いて六角軍と戦を行い、見事な戦いを見せつけます(野良田の戦い)。
この浅井長政の戦いぶりは家臣団を心酔させたと言われています。
完全に六角氏と対立をした浅井長政は、婚約していた六角氏の家臣であった娘を送り返して絶縁します。
ここに戦国大名としての浅井長政が誕生したのです。
浅井長政はその後も六角氏と争いを続けます。
1563年、浅井長政が美濃(岐阜県の一部)に遠征中の隙をついて六角家の当主である六角義賢が攻めてきます。
それを見事に撃退した浅井長政は更に領地を拡大します。
その頃、織田信長は1560年に桶狭間の戦いで今川義元を倒していましたが、美濃の攻略に手間取っていました。
1561年、美濃の国主である斎藤義龍が死去したため、更に美濃攻略に手を伸ばしていました。
そこで信長は美濃の攻略、更に上洛をする道を確保するため浅井長政との同盟を考えます。
しかし、浅井側は賛否両論がありました。
同盟の条件としては浅井側に有利であったようですが、一つ懸念がありました。
それは隣国で浅井家と非常に関係が深い朝倉家の事でした。
信長は西美濃を攻略すると朝倉義景が収める越前と領地を接することになり、お互いに挑発を繰り返していました。
朝倉義景と織田信長の関係が良くないことは誰の目にも明らかとなっていました。
しかし、信長が朝倉家と戦をしない不戦の誓いをしたため同盟に踏み切ります。
織田信長は切り札として残しておいた妹のお市の方を浅井長政に嫁がせます。
お市の方は信長の妹で、絶世の美女として他国に聞こえていました。
信長はこのお市の方をなかなか嫁がせず、切り札としてとっておいたと考えられています。
信長は浅井長政の器を高く評価していて、敵とすることを恐れ味方にしようと考えたようです。
1567年織田、浅井家は婚姻同盟を締結します。
この婚姻の際、本来であれば浅井家が結婚資金を工面するところを信長が全額負担したと伝えられています。
どれだけ信長がこの同盟を重視していたかが伺えるかと思います。
そして1568年、織田信長は足利義昭の求めに応じる形で上洛を果たすことになります。
無事に上洛を果たした織田信長でしたが、上洛後の仕事の一環として各地の大名に足利義昭の命と評して上洛を促します。
これは間接的に信長の軍門に降ることを意味していました。
1570年、朝倉義景はこの要請を2度も無視したため、織田信長は朝倉家の追討に動き出します。
しかし、信長は浅井家との盟約である「朝倉家との不戦の誓い」を破り朝倉義景に攻撃を開始します。
しかもこの攻撃に際して織田信長は浅井長政に事前の通達を行いませんでした。
この事態に浅井家は緊急の会議を開きます。
前当主であった浅井久政などは「今後信長に付き従っても領地の拡大は無く、浅井家の未来は無い」と断言したそうです。
確かにこの発言には一理あります。
これは上洛した織田信長が、浅井家の南に位置する南近江の六角義賢を打ち破って自国の領地にしたためでした。
浅井家は北に朝倉家があるため北には勢力を伸ばせません。
このため勢力拡大を行うためには南の六角家を攻撃するしかありませんでした。
上洛した際に信長は六角家に大打撃を与え、六角家の領地を奪ってしまっていたのです。
浅井長政はしっかりと考えた上で決断します。
そして、浅井長政は朝倉家を攻める織田、徳川連合軍に背後から襲い掛かります。
この浅井長政の裏切りは信長にとって寝耳に水の出来事でした。
信長からすれば朝倉家と浅井家はただの同盟で、織田家と浅井家は婚姻同盟をしているため、こちら側につくと踏んでいたのかもしれません。
信長は窮地に追い込まれます。
戦場でわずかな供を引き連れ、闇に乗じて逃げてしまったのです。
大将を失った織田軍でしたが織田軍は奮戦します。
明智光秀や豊臣秀吉、更に徳川家康という後の天下を競う3人などによって退却は成功するのです(金ヶ崎の退き口)。
浅井長政はこの千載一遇の機会を逃してしまい、織田軍に壊滅的な打撃を与えることが出来ませんでした。
九死に一生を得た信長は岐阜に戻り軍勢を整えます。
浅井長政の裏切りから2か月後の1570年6月、織田徳川連合軍と浅井、朝倉連合軍は近江(滋賀県の一部)にある姉川で対峙します(姉川の戦い)。
驚いたことにこの戦いで朝倉家は朝倉義景本人が出陣していませんでした。
この事態に浅井家は愕然としたと言われています。
しかし、浅井長政の軍は非常に指揮が高く、数で劣りながら信長を追い詰めます。
されど多勢に無勢、信長の別動隊が長政の軍の横腹をつき形勢は逆転し、浅井、朝倉連合軍は退却してしました。
ひとまずこの戦は織田信長の勝ち戦になったのです。
しかし、この合戦で決定的に織田家が勝利したわけでは無く、まだ浅井、朝倉方も余力が残っていたため、引き続き戦い続けることになっていくのです。
姉川の戦い後の1570年8月、信長は西側で挙兵した石山本願寺などを討伐するため摂津(現大阪府の一部)に向かいます。
その隙を付く形で1570年9月浅井、朝倉連合軍は近江に侵攻します(志賀の陣)。
この戦いで信長の弟である織田信治と織田家重臣の森可成を討ち取ります。
しかし、信長が軍を引き返してきたため浅井、朝倉軍連合軍は比叡山に立て籠ります。
この戦いは長期化し1570年12月に勅命による講和をすることになりました。
比叡山が浅井、朝倉連合軍側についたことに信長は激怒します。
翌1571年比叡山延暦寺は焼き討ちにあってしまいます。
この所業に激怒したのは甲斐(現山梨県)の大大名武田信玄です。
仏門に入り出家していた武田信玄は信長を痛烈に非難し、信長追討を画策します。
1572年9月、遂に武田信玄は甲斐を出て出兵します(西上作戦)。
この信玄の西上作戦に信長は非常に強い危機感を感じたと言われています。
信長は信玄を恐れていたため、ずっと友好関係を保っていました。
信長は信玄とだけは戦をしたくなかったようです。
そしてこの事態に信長は信玄に対処するため、浅井、朝倉軍に対する軍を全く動かせなくなったのです。
浅井、朝倉軍はこれに呼応し軍を出します。
武田信玄は快進撃を続け、連戦連勝で徳川家康を敗死寸前まで追い込みます。
しかし、朝倉軍は12月兵の疲労と積雪を理由に撤退してしまいました。
またしても最大のチャンスを浅井、朝倉連合軍は活かすことが出来なかったのです。
武田信玄は快進撃を続けますが1573年4月12日、病に倒れ病死します。
一番うれしかったのは信長だったでしょう。
1573年7月信玄の死を確信した信長は北近江に攻め寄せます。
朝倉軍は援軍を率いて出兵しますが、織田信長の巧みな戦略に壊滅させられ朝倉家は滅亡します。
取って返した信長軍は浅井長政の居城の小谷城を包囲します。
命運を悟った浅井長政は自害して果てたと言われています。
享年29
いかがでしたか
浅井長政は非常に人気のある武将で、朝倉家に対して忠義に殉じた義の武将と言われています。
しかし、私は少し否定的に考えています。
織田信長と対等な関係で同盟をした浅井家でしたが、勢力を伸ばしていく信長に家臣のように扱われることを嫌ったのではないでしょうか。
つまり、浅井家は強いプライドがあったため滅亡したとも考えられます。
それに引き換え徳川家康は同じような境遇に居ながら耐え続けて天下人となりました。
信長に対抗することを否定的には考えませんが、敵対するなら充分な戦略を練ってから行うべきだったと思います。
用意周到に信長に敵対していれば、金ヶ崎で信長を滅ぼすことも出来たのではないかと私は思います。
今回は忠義の武将として名高い浅井長政についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~