• 歴史が大好きなテキトー薬剤師・・・

 今回は信長に攻められて朝倉家を滅亡させてしまった朝倉義景についてです。


朝倉義景と言われると浅井長政の信長への裏切りによって優位に立ったものの、敗れてしまった暗愚な武将だというイメージも強いかもしれません。


確かに朝倉義景は何度も好機に恵まれながら活かせかった武将です。


しかし、それは朝倉義景の武将の資質だけではないかもしれません。


朝倉家最強の武将の朝倉宗滴の死、義景に兄弟が居ないことに事で信頼するべき一門の外交力不足など様々な要因があると思います。


今回は暗愚な武将として名が上がりやすい朝倉義景について考えてみることにしましょう。

朝倉家衰退の道へ・・・

 朝倉義景は越前(現福井県)国の第10代朝倉家当主である朝倉孝景の長男として1533年に誕生します。


父である朝倉孝景は一門の朝倉宗滴の力などがあり、朝倉家を最盛期に推し進めた人物です。


朝倉孝景は足利将軍家のこれまでの朝倉家に対するイメージを改善させ、幕府の相伴衆(一部の有力大名だけが与えられる役職)に列せられるまでになりました。


しかし、朝倉孝景は子宝に恵まれず40歳ほどの年齢の時に朝倉義景が誕生します。


その後孝景には子供が生まれず、朝倉義景は一人っ子ということになってしまいます。


他の大名とかを視ているとよくわかるのですが、兄弟が多く繋がりが深いほどより大きな大名に成り得る気がします。


例えば関東の北条家や弟に絶対的な信頼を寄せていた武田家の武田信玄など・・。


朝倉義景は生まれながらに悪い条件があったようにも感じます。


1548年には父親である朝倉孝景が死去し、後を継ぎます。


また1552年には当時将軍だった足利義輝から義の字をもらって正式に朝倉義景という名前になりました。


この事からも足利家と朝倉家の繋がりを感じることが出来ると思います。


1555年には朝倉家最強の男である朝倉宗滴が死去します。


政務や軍事を補佐していた宗滴の死が朝倉家に与えた影響は強く、1564年朝倉家が加賀(現石川県)に侵攻した時に内部分裂が生じてしまいます。


一門である朝倉景垙が同じ一門である朝倉景鏡と口論になり、陣中で憤慨し自害してしまったのです。


この異常事態に朝倉義景自身が加賀に出向き、戦自体は事なきを得ます。


しかし、宗滴の死が朝倉家にとって非常に良くない雰囲気を生じさせていたことは間違いなかったようです。


このように朝倉家は少しずつ悪いことが重なっていき滅亡の道を進んでいく事になるんです。

最初の失態・・・

 1565年、朝倉義景のもとに衝撃のニュースが届きます。


将軍であった足利義輝が松永久秀などによって殺害されてしまったというのです。


足利将軍家と強い繋がりを持ち始めていた朝倉家は動転します。


そこで奈良の興福寺に幽閉させられていた足利義輝の弟である覚慶(後の足利義昭、後述から足利義昭とする)を救出することを画策します。


実際に救出したのは細川藤孝など将軍家の側近の者たちでしたが、朝倉義景はこの者たちと連絡を取り合っていました。


このことから朝倉義景が救出を先導していたかもしれませんね。


足利義昭は救出されたのち様々な場所で上洛の機会をうかがっていましたが、なかなか実現できませんでした。


そこで1566年9月、足利義昭は上洛の助力をお願いするために朝倉義景を頼り、越前まで足を運ぶことになりました。


もしこの要請に応えて上洛を果たせば、将軍家を補佐したとして日本国に朝倉義景の名前を広くとどろかすことが出来たはずでした。


しかし義景は上洛に慎重でした。


状況は確かによくはありませんでした。


長年の敵である加賀の一向宗徒が朝倉家への攻撃の機会をうかがっていたのです。


実際1567年3月、家臣の一人である堀江景忠が加賀一向一揆と通じて謀反を企てます。


これに激怒した義景は堀江景忠を攻め立てたましたが、攻めきれずに和睦したようです。


そして越前に滞在していた足利義昭の仲裁もあり、1567年12月加賀の一向宗徒とも和睦しました。


これでようやく足利義昭は朝倉義景が上洛の援助をしてくれると考えたと思います。


12月で雪があった可能性があるので、翌春には上洛のために出兵してくれるはずだと・・・


しかし、朝倉義景は動きませんでした。


1568年6月には義景の息子である阿君丸が急死したことにより政務すら放棄し始めたそうです。


1568年9月このような状況の中、足利義昭は明智光秀などを介して織田信長を頼って上洛を果たすことになるんです。


息子が亡くなって悲しみに暮れるのは仕方ないですが、これに堪え力に変えていくのが有能な当主だと私は思います。


実際ほぼ同時期に武田信玄は息子である武田義信が亡くしていますが、すぐに駿河(静岡県東部)に侵攻して勢力を伸ばしています。

忠義の鬼である浅井長政登場!! しかし・・・

 運命の1570年・・の前に浅井家との関係についてお話させていただきます。


浅井家と朝倉家は1525年、当時の浅井家当主である浅井亮介と朝倉家ナンバー2の朝倉宗滴が関わったことで深い同盟関係になります。


ピンチであった浅井亮介を朝倉宗滴が助けたことで、浅井家は朝倉家に対して強い恩を感じていたようです。


1560年頃浅井家の当主は浅井亮介の孫にあたる浅井長政になっていました。


浅井長政は1567頃、織田信長との同盟の証として信長の妹のお市の方を娶っていました。


この同盟の条件として浅井家は織田家に対して「朝倉家とは戦をしない」という契約を行っていました。


ここまでが浅井家と朝倉家の前置きになります。


話は最初に戻りますが、上洛を果たした信長は足利義昭の命という形で各地の大名に上洛を促していました。


朝倉家にも上洛の催促の連絡が来ていましたが、朝倉義景はこの要請を無視し続けます。


2度要請したにも関わらず無視され続けた信長は、朝倉家に謀反の疑いをかけ戦を仕掛けます。


信長は浅井長政に朝倉家を攻めることを事前に言っておくべきでしたが、何の通達もないまま朝倉家を攻め始めてしまいました。


これに激怒した浅井長政は信長の背後を付き信長を攻撃します(金ヶ崎の退き口)。


浅井長政の裏切りをしった信長はしばらくこの報を信じなかったと言われています。


命からがら単騎で逃げた信長は軍勢を立て直して1570年6月織田、徳川連合軍と浅井、朝倉連合軍は近江(滋賀県の一部)にある姉川で対峙します(姉川の戦い)。


この時援軍として朝倉家は8000もの軍を送りましたが、朝倉義景本人は出陣しませんでした。


この事からも朝倉義景が大将の器ではないことがわかります。


大将に当主自身が行かないことは指揮を下げる行為ということが理解できていなかったようです。


朝倉家はナンバー2の朝倉宗滴が常に大将で出陣したことが影響したのかもしれません。


この大事な戦で指揮の低い朝倉軍は目立った活躍も出来ず敗退してしまいます。


戦国史上、非常に重要なこの戦でも朝倉義景は失態を犯してしまうのです。

撤退、更に撤退・・・ そして最期

 姉川の戦いで敗北した朝倉義景ですが、完膚なきまでに打ちのめされたわけではありませんでした。


またチャンスは来ます!!。


1570年8月、信長は西の敵勢力である石山本願寺などを攻めるために出陣します。


朝倉義景はこの隙をついて1570年9月近江坂本に出陣します。


兵の少ない織田軍は信長の弟である織田信治や信長の重臣である森可成が討ち取られてしまいます。


この報を聞いて信長は近江に引き返したため、朝倉軍は比叡山に立て籠ります。


この戦(志賀の陣)では一進一退で勝負がつかず、講和することになりました。


朝倉義景はこの戦で少しだけ挽回したように思います。


またこの戦で朝倉家に味方した比叡山は翌年信長によって焼き討ちに合ってしまいます。


しかし、信長の悪逆非道ぶりを知った甲斐の武田信玄は怒り、信長を討つために出陣することになるんです。


1572年10月、武田信玄は遂に動き始めます。


この時朝倉軍も織田に攻勢をかけるため出陣しますが、羽柴秀吉に敗退してしまいます。


そして、部下の疲労と積雪を理由に撤退してしまいました。


またしても朝倉義景は重大な失態を犯してしまいました。


この報に信玄は怒り義景に対して痛烈に非難する文書を送ったと言われています。


武田信玄はこの朝倉軍の撤退があったにも関わらず快進撃を続けます。


しかし、1573年4月12日武田信玄は病で亡くなってしまいます。


この信玄の死によって織田信長は息を吹き返し浅井、朝倉軍を攻め立てていく事になるんです。


1573年8月、武田家の脅威が消えた信長は朝倉義景を攻め立てます。


信長は8月12日暴風雨で敵が油断している隙をつき朝倉方の砦を陥落させます。


この陥落を知った朝倉義景はまたしても撤退を開始してしまいました。


この時朝倉家の兵の指揮は低かったですが、2万の軍勢を集められていたと言われています。


2万の軍勢があるなら対峙して戦うべきだと思いますよね。


信長は朝倉義景が撤退することを予見していたようで、異常なまでの追撃を行います。


この戦(刀根坂の戦い)で朝倉義景は大多数の家臣を失ってしまいました。


そして朝倉義景は、一門の朝倉景鏡の勧めで一時寺に身を潜めることにしましたが、朝倉景鏡の裏切りに合い襲撃され自害したと言われています。


享年41。

まとめ

 いかがでしたか


朝倉義景は多くのチャンスがありました。


しかし、このチャンスを全く生かすことが出来なかった武将だと言えると思います。


また撤退、撤退を何度も繰り返す事によって、人心が離れていってしまうことに気が付かなかったでしょうか


浅井長政が死を覚悟して、同盟を堅持してくれたのにも関わらず負けてしまうんです。


ただ、朝倉家がもともと一門に最前線を任せる体質があったため、義景は軽々しく大将が出陣することを良しとしなかったのかもしれません。



今回はチャンスを逃し続け、朝倉家を滅亡させてしまった朝倉義景についてお話させていただきました。


ではまた他の記事でお会いしましょう。


ではでは~


コメント一覧

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