今回は朝倉家を最盛期に導いた最強のナンバー2である朝倉宗滴についてです。
朝倉家を知るにはこの人物は欠かせないと思います。
朝倉宗滴は79歳でこの世を去るまで常に戦の最前線で戦い続けます。
死ぬ直前まで戦場に出張っていたなんて凄すぎます。まして79歳までなんて・・・
1512年からの主君である朝倉孝景は自身は最前線で戦わず、常に一門を最前線に送り任せていました。
この人物が朝倉宗滴でした。
朝倉家に繁栄をもたらした最強の武人である朝倉宗滴について今回はみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
朝倉宗滴は越前(現福井県)初代朝倉氏守護で朝倉氏の7代目の朝倉敏景(10代目朝倉孝景と同じ朝倉孝景という名前なので別名の朝倉敏景で表記します・・)の八男として1577年に産まれます。
朝倉宗滴は幼名を小太郎といい、歴代の当主が名乗っていた名前と同じでした。
また歴代当主が名乗る「景」の字が諱の後にある朝倉教景という名前を名乗っていた時期もあることから跡継ぎと考えられていたようです。
何故8男が跡継ぎと考えれていたかはわかりませんが・・・。
1481年父である朝倉敏景が亡くなると、まだ若年であった朝倉宗滴は当主にならずに兄である朝倉氏景が当主になります。
更に兄である朝倉氏景が1486年に死去すると氏景の息子である朝倉貞景が当主を継ぎます。
しかし次期当主は宗滴であるとまだ考えられていたので、若年ながら政務・軍事を執行していたと考えられています。
1503年、20代になっていた朝倉宗滴に事件が起こります。
敦賀城主である朝倉景豊が謀反を起こします。
朝倉景豊の妹と結婚していた朝倉宗滴は朝倉景豊に協力するように求められます。
元々当主になる器であった朝倉宗滴は、一時自分が当主になるべく下克上を行う野心を抱いていました。
しかし、朝倉家はもはや朝倉貞景を当主とした体制で安定したため、朝倉景豊を見限り当主である朝倉貞景にこの謀反を密告します。
この事件により朝倉景豊は自害し、朝倉宗滴は金ヶ崎城主となり新たな敦賀郡司(敦賀を取り仕切るトップの役職)となりました。
この事件から朝倉宗滴は当主になる野望をあきらめ、朝倉家のナンバー2として軍務を取り仕切ることになるんです。
1506年、朝倉宗滴の武を天下に知らしめる戦が起きます。
当時加賀(現石川県南部)を統治していた一向宗が勢力を拡大するために大規模に動き始めます。
この時、幕府の中枢である管領には細川政元という人物がいました。
朝倉家は元々応仁の乱で守護職に就任した家柄で、幕府にはあまり良く思われていなかったようです。
幕府の中枢にいる細川政元は一向宗を束ねる本願寺と親密な関係にあり、加賀の一向宗に朝倉家を攻撃するように強く要請します。
この要請に能登(石川県北部)、越中(現富山県)の一向宗の門徒も越前に集結し始めます。
これに越前の甲斐氏の牢人(仕えていない武士のような者)衆が合流し、越前に侵攻してきました。
朝倉家は危機感を募り、朝倉宗滴を総大将として出陣します。
一向宗連合軍は30万もの大軍だったと言われて、これに対し朝倉軍は8000~16000と言われています。
一向宗の人数は誇大な数かもしれませんが、かなりの兵力差であったのは間違いないです。
両軍は九頭竜川一帯で対峙します(九頭竜川の戦い)。
朝倉宗滴は機先を制するため、夜に川を渡る決意をし夜襲を仕掛けました。
この攻撃によって一向宗の本願寺派は総崩れになり加賀に撤退します。
そして、総崩れになった隙を付き、越前にあった本願寺派の拠点である吉崎御坊を破壊し、奪取することになりました。
この戦により朝倉宗滴に武名は天下に知れ渡ることになったのです。
武名を高めた朝倉宗滴は、こののち常に朝倉家の戦の最前線に立ち続けます。
1517年、幕府の命により若狭(福井県南部)、丹後(京都府北部)に出兵し反乱を鎮圧します。
1525年には美濃の内乱が起き、浅井家の浅井亮介が介入し始めます。
この仲介をするために朝倉宗滴は浅井家の居城である小谷城周辺に5か月間滞在したそうです。
窮地に陥っていた浅井亮介はこの仲介に生涯恩を感じていたようで、浅井家と朝倉家は固い絆に結ばれることになります。
これが45年後の信長包囲網での浅井長政の裏切りに繋がるのは悲しい事実ですね・・。
1527年、当時将軍だった足利義晴の要請で三好家を討つため上洛し勝利を収めます。
1531年には加賀の一向宗による内乱にも出兵し撃退し、朝倉家の武威を示します。
1548年には当主であった朝倉孝景が死去すると、跡継ぎとなった朝倉義景を補佐して越前の安定化に尽力します。
そして、1555年破竹の勢いで勢力を伸ばす越後(現新潟県)の長尾景虎(後の上杉謙信)と協力して加賀の一向宗を討ちに出陣します。
これが朝倉宗滴最後の戦いになりました。
7月21日に出陣し、7月23日には一日で3城も落とし一向宗を苦しめたそうです。
しかし、一向宗の反撃も手強く、一進一退になりました。
この時79歳だった宗滴には無理が過ぎたのでしょう。
陣中で病に倒れ、9月8日亡くなりました。
この死によって長尾景虎は加賀の情勢に危機感を感じと言われています。
長尾景虎は武田信玄との対陣中だった川中島での戦いを和睦し、加賀に対して万全の準備をすることになったんです。
他国の武将にとっても朝倉宗滴の死がどれほどのインパクトであったかわかると思います。
いかがでしたか
朝倉宗滴がいかに凄い武将であったか少しは理解していただけたかと思います。
朝倉宗滴は朝倉家が最強であった時代そのものと言えると思います。
ちなみに、死の間際宗滴は織田信長の未来に非常に興味があったと言われています。
「尾張(愛知県西部)の若殿の将来をあと3年見たかった」と言って亡くなったと言われています。
この当時織田信長は家督を継いで数年で、尾張を掌握すらしていない段階です。
信長の将来予見し、器量に惚れ込んでいたのかもしれません。
79歳とこの時代の中では非常に長寿ですが、その後の朝倉家を考えるとあと10年は生きていて欲しかったと思ってしまいます。
今回は朝倉家最強の武人であるである朝倉宗滴についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~