今回は上杉四天王の一人であり出自不明の甘粕景持についてお話させていただきます。
甘粕景持と言われても大半の方は「知らない」もしくは「聞いたことだけある」程度だと思います。
確かに川中島の戦いでの甘粕景持の雄姿以外については、地味な活躍が多いと思います。
しかし、この「川中島の戦いでの甘粕景持」については忘れてはいけません。
この一戦をもって甘粕景持は上杉四天王と呼べるのだと自分は思っています。
今回は川中島の戦いで名を馳せた甘粕景持についてみていきましょう。
ちなみに、上図は織田信秀で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
甘粕景持については、いつ産まれたかという確かな資料はありません。
その理由は、甘粕景持が謙信の実家である長尾家の家臣でもなければ、越後上杉家の家臣でもなかったからです。
つまり、地元に根付いている有力な武将の家柄では無かったのです。
甘粕景持の出自については、三つほど説があります。
一つ目は、上野(現群馬県)の新田氏の一族であったとする説です。
新田氏は鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞を輩出した名家でした。
しかし、戦国時代となると新田家は衰退していて、長尾家に仕えたというものです。
二つ目は長尾政景の領地であった上田庄の出身で、その過程で長尾家に仕えたという説です。
上田庄という領地は、越後と上野の間にある土地で、関東の交通の要衝となる土地になります。
そして最後の三つ目は武田信玄の本拠地である甲斐と信濃の国境沿いにある白峰三山に住んでいたところを謙信に見出されたという説です。
ここでは狩猟を行って生計を立てていたと言われています。
いずれの説もばらばらで確かなことはわかっていません。
しかし一つ確かなことは、謙信に見出されて大出世をしたということです。
そして、謙信に見出された甘粕景持の名が最初に登場してくるのは、1547年の三日城の築城からになります。
三日城は川中島にほど近い長野県長野市の豊野近辺に築かれた城で、その名の通り3日間で急遽作り上げた仮の砦であったようです。
1559年の謙信の上洛に際しては、祝いの品として金色に輝く太刀を進呈しています。
1560年には、謙信の関東出兵にも追従しています。
関東出兵に際し、上杉謙信は北条家を滅亡一歩手前まで追い詰めます。
そして上杉謙信は、鎌倉の鶴岡八幡宮で正式に関東管領職を継承したのです。
この時、甘粕景持は「御手士大将」に任命されたと言われています。
この役職に就いたのは、柿崎景家、宇佐美定満、河田長親、そして甘粕景持の4人でした。
甘粕景持がどれだけ謙信に信頼され、家臣として重要な位置にいたかわかると思います。
そして甘粕景持は、謙信の側近として川中島の戦いを迎えることとなるのです。
川中島の戦いにおける甘粕景持の活躍については、勝手ながら最後にお話させていただきます。
これはただ、自分がテンション高く締めくくりたいだけなので・・・(笑)
さて川中島の戦いの後、甘粕景持が次に活躍するのは謙信の死後の新発田重家の乱になります。
謙信の死後、上杉家では家督争いが勃発し、上杉景勝と上杉景虎が血で血を洗う内乱を生じさせます(御館の乱)。
結果として上杉景勝が勝利を収めますが、この時甘粕景持は景勝側に付き事なきを得たそうです。
この内乱では、各地の上杉家の家臣たちが散り散りとなって争いました。
得に上杉家の領地である越後北部では非常に激しい争いがあったようです。
ここで登場するのが新発田家です。
当時の新発田家の当主新発田長敦は、外交手腕に優れ、御館の乱で武田勝頼との和議を成立させるなどの活躍をしています。
また、新発田長敦には優秀な弟がいて、景勝の勝利に大いに貢献しました。
この人物こそ、後の新発田重家です。
新発田重家は、この乱で景虎側についていた同族の加地秀綱を降伏させ、三条城の神余親綱をを討ち果たします。
更にこの内乱に介入してこようとする他国の蘆名盛氏や伊達輝宗を退けます。
新発田重家は周りを敵勢力に囲まれながら、見事に撃退してしまうのです。
しかし、戦後の新発田家は不遇でした。
新発田家の領地は担保されたものの大した加増も無く、上杉景勝は側近たちに新たな領地を分配してしまったのです。
新発田家の当主新発田長敦はこのような状況のなか、1580年に不遇のうちに亡くなってしまいました。
そこで新たに家督を継いだ新発田重家は上杉景勝に反乱を起こします。
この反乱が新発田重家の乱と言われるものです。
少し前置きが長くなりましたが、この乱における甘粕景持の活躍についてお話させていただきます。
1581年、新発田重家は越後北部で反乱し独立を宣言します。
1582年、上杉景勝はこのような状況に対し、越後の中間から北に位置する三条城に甘粕景持を配置することにしたのです。
この城は新発田重家の領地に接する最前線であり、甘粕景持がどれだけ景勝に信頼させていたかわかるエピソードの一つです。
そして、この乱は周辺諸国の情勢もあり長引きます。
1586年、景勝は遂に新発田重家に攻勢を仕掛けます。
この戦で鉄砲隊の大将を務めたのが甘粕景持であったようです。
翌年、新発田重家の乱は終結し、甘粕景持は景勝から戦功を称賛されたと言われています。
その後、甘粕景持は年齢的なこともあったためか戦での記録は無く、1604年上杉家の転封先である米沢で亡くなったと言われています。
お待たせいたしました!
それでは最後に、甘粕景持の川中島の戦いでの働きについてみてきましょう。
まず川中島の戦いが起きた経緯についてお話させていただきます。
川中島とは長野県と新潟県の県境に流れる千曲川流域の一部の地域を指します。
1561年に起きた第4次川中島の戦いが一般的に「川中島の戦い」と言われている戦いとなります。
最も激戦となった川中島の戦いです。
第4次川中島の戦いは上杉謙信が北条討伐のため関東に出兵していた時、武田信玄が川中島周辺の地域に侵攻したことによって起きました。
武田信玄は北条家と同盟していたこともあり、上杉家の勢力を今以上に広げさせるわけにはいきませんでした。
そこで上杉謙信が関東に出兵している隙をついて川中島を攻めさせたのです。
しかし、調略を駆使しても上杉家の面々を取り込めないと感じた武田信玄は決戦に挑む決意をします。
信玄は一度兵を引き上げ、謙信が川中島に現れる時を待つことにしました。
謙信は関東出兵を切り上げて越後に戻り、川中島へ出陣します。
謙信もまた信玄との決着を待ちわびていました。
そして、謙信は武田家の領内にある妻女山に陣を敷きます。
しかし、妻女山は武田家の領内にある場所で、謙信は退路を断たれる可能性もありました。
実際に武田信玄は退路を断って包囲をしますが、何日経っても謙信は動きません。
そこで武田信玄は川中島一帯の中間に位置する海津城に入り機会をうかがいます。
しかし、それでも謙信は動こうとしませんでした。
武田信玄はいつまでたっても動かない謙信を見かねて積極策に打って出ます。
武田信玄は夜陰に乗じて別動隊12000を妻女山に向かわせ、謙信を平野に追い落とす作戦を採用します。
その謙信を平野に追い出したところで信玄率いる本隊と挟み撃ちにするというシナリオです(啄木鳥戦法)。
しかし、この動きを察した謙信は夜のうちに川中島の平野に降りていたのです。
早朝霧が晴れた後、信玄率いる本隊8000と謙信率いる13000で戦いが始まってしまったのです。
少し長くなりましたが、この殿(しんがり)を任されたのが甘粕景持でした。
序盤での戦いは、数の多い上杉謙信が優勢でした。
しかし、武田軍の別動隊12000が本隊と合流して上杉軍に襲いかかってくるのは時間の問題でした。
その別動隊を迎え撃ったのが甘粕景持だったのです。
甘粕景持は、武田軍の別動隊が川中島の八幡原に到着すると、1000ほどと言われる兵数で迎撃します。
圧倒的な兵力差の前に甘粕景持は、いったん退きます。
そして、武田軍の別動隊が到着するとの情報を得た上杉謙信は、遂に撤退を決断します。
武田信玄にとどめを刺すことが出来なかった謙信はこの戦いでの決着を見送ったのです。
戦とは、撤退の時に最も被害が甚大になると言われています。
この撤退の殿を担当したのが甘粕景持でした。
撤退していく上杉軍に対して武田軍は猛烈に反撃に出ます。
しかし、甘粕景持は鬼神の如くの戦ぶりを見せつけます。
あまりにも猛烈な戦ぶりを見た武田軍は、上杉謙信自身が指揮を執っていると勘違いしたくらいでした。
無事味方の軍を逃がすことに成功した甘粕景持は、しばし待ってから撤収したようです。
これは「自分が責任を持って戦を見届ける」という覚悟があったのだと思います。
いかがでしたか。
甘粕景持の生き方、人生を少しわかっていただけたでしょうか。
この武将がどれだけ凄い武将であるかわかっていただけたかと思います。
川中島の戦いでの彼の働きは、あっぱれとしか言いようがありません。
上杉軍において、この川中島の戦いがどれだけ「覚悟を決めた戦い」であったかが良くわかると思います。
今回は上杉四天王の一人で上杉家随一の猛将である甘粕景持についてお話させていただきました。
ではまた他の記事でお会いしましょう。
ではでは~