今回は2020年の大河ドラマで主役である明智光秀の叔父の明智光安についてみていきたいと思います。
明智光安と言われてもほとんどの人は聞いたことがないと思います。
私も信長の野望というゲームをするまで全く知りませんでした。(笑)
しかし、明智光秀について知れば知るほど重要な人物だということがわかりました。
明智光秀の前半生においては、明智光安無しには語れないと言っていいでしょう。
前置きはここまでにして早速、明智光安についてみていきましょう。
ちなみに、上図は明智光安で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
以前、明智光秀のところでも書かせていただきましたが、明智家は美濃国(現岐阜県)の守護である土岐家の一族にあたります。
この明智光安とは明智光秀の叔父にあたる人物です。
光秀の後年に光秀を支える明智秀満は、この明智光安の子供だと言われています。
光秀の話になりますが、光秀の父親は明智光綱という人物で、明智家の当主になるはずの人物でした。
しかし、1535年、明智光綱は当時土岐家で実力をつけていた斎藤道三に明智城を攻められて死亡したと一部の資料にはあるようです。
明智光綱は光秀がまだ子供の時に死んでしまったため、明智家を動かす人物が必要でした。
その人物こそが明智光安だったと言われています。
光秀の父親が亡くなった1535年、当時の美濃国はというと土岐家がまだ実権握っていました。
しかし、急速に土岐家家臣の中で頭角を現したのが斎藤道三でした。
斎藤道三に器の大きさを感じた明智家は、明智光安の妹であり、明智光秀の叔母さんにあたる小見の方を道三に嫁がせます。
そこで二人の間に生まれたの女性が、後に織田信長の奥さんになる帰蝶(濃姫)ということになります。
また斎藤道三には息子が何人かいますが、その中で後の事件で関係する孫四郎、喜平次も小見の方の子供ではないかと言われています。
これらの事からわかるように斎藤道三と明智家は外戚という血縁で結ばれることになったのです。
1542年に土岐家を追放し美濃国の国主となった斎藤道三ですが、明智光安は土岐家ではなく斎藤道三に臣従します。
明智光安は斎藤道三と血縁関係を結んでいたため、斎藤道三には非常に信頼されていたようです。
斎藤道三には斎藤義龍という長男がいましたが、義龍は土岐家の土岐頼芸の側室であった深芳野(みよしの)という女性が母親だと言われています。
斎藤道三の他の息子には、明智家の血筋を汲んでいると思われる孫四郎、喜平次などの子供がいました。
斎藤道三は土岐家と関係ある義龍より孫四郎、喜平次などの子を可愛がっていたようです。
そして、斎藤家が実権を握って14年後の1556年、事件がおきます。
長男である斎藤義龍が父親を不審に思い、孫四郎、喜平次を暗殺してしまいます。
義龍は父親も討ち果たして斎藤家の当主になるつもりで兵をあげました。
対峙した斎藤道三と斎藤義龍でしたが、旧土岐家の家臣団を味方につけた義龍は圧倒的な兵で道三を討ち果たしてしまったのです。
明智家は外戚ということもあって道三側についてしまったので、明智光安もこの戦いで戦死したと言われています。
いかがでしたか?
確かに明智光安と言われてもぱっとしないかもしれませんが、光秀の人格形成をする上で非常に近しい人物であったのがわかると思います。
後の世の織田信長を支えた妻は明智光安の姪である帰蝶です。
また、明智光秀の叔父でもあります。
戦国時代後半の礎を築いた一人といえるでしょう。
今回は明智光秀の叔父であり、光秀に強い影響を与えた明智光安についてのお話でした。
また随時、大河ドラマに関係ある人物を紹介していきたいと思います。
ではでは~