今回は2020年の大河ドラマで主役になることになった明智光秀についてみていきたいと思います。
明智光秀と言えば「織田信長を本能寺で討った謀反人」「本能寺の後、豊富秀吉に負けて死んでいった無能な人」といったイメージを持つ人もいるかと思います。
しかし明智光秀ははっきり言って超有能です!!
慎重に行動することが多い信長のちょっとした隙をつき討ち取ることが出来たんですから。
無能なわけがありません!!
悪いイメージを持っている人がいるかもしれませんが、凄く人間的で魅力的な人物なんです。
また非常に素晴らしいバランス感覚を持っていたため、人脈も豊富でした。
そして豊臣秀吉などよりもずっと後に織田家に加入したにも関わらず、一番の出世した人物でもあります。
信長が最も信頼した家臣だったと言えるでしょう。
少し前置きが長くなりましたが、信長に最も信頼された男である明智光秀について少しみていきましょう。
ちなみに、上図は明智光秀の叔父の明智光安で信長の野望をプレイしてみた動画です。
歴史が好きすぎるので作っちゃいました!!
よろしければ見てください~
目次
明智家というのはもともとは美濃(現在の岐阜県)の国主である土岐氏という一族の出身です。
しかしその土岐家が斎藤道三に乗っ取られたことから、明智家は斎藤家に仕え始めます。
明智光秀は明智家の嫡男(御曹司みたいなもの)として生まれましたが、当時は幼かったこともあり叔父の明智光安という武将が後見人になっていました。
明智光安は自分の妹を斎藤道三に嫁がせていたこともあり、明智家は道三と密なつながりを持っていました。
この妹と斎藤道三の間に産まれたのが、後の信長の奥さんの帰蝶(濃姫)ということになります。
1556年、突如として斎藤道三の実の息子の斎藤義龍が父に謀反を起こして道三を殺してしまいます。
明智家は道三側の人間であったため、居城の明智城を斎藤義龍に攻められて一族は離散してしまいます。
明智光秀も失意のまま越前(現福井県)の朝倉家を頼ることになりました。
こののち10年近い年月を朝倉家で過ごしたとされています。
明智家の嫡男でありながら、故郷を奪われ越前で鬱々とした日々を送っていたのは容易に想像できますね。
鬱々としていた光秀の前に突如として転機が訪れます。
1565年、当時の最高権力者で第13代将軍の足利義輝が謀反にあい殺されてしまいます。
幕府の最高権力者が居なくなり、次の将軍候補と言われる足利義昭が上洛(京都に登ること)を補佐してもらおうと朝倉家のいる越前に来ていたのです。
もともと明智家の御曹司であった光秀は教養もあり、知的センスも抜群であったことから足利義昭に気に入られ、部下になります。
しかし、いくら朝倉家当主、朝倉義景に足利義昭とともに上洛をする要請をしても却下されてしまいます。
そこで光秀はその頃急激に勢力を伸ばしていた織田信長に白羽の矢を立てます。
足利義昭に「織田信長は頼りになる男だから、相談してみてはどうか」と進言したんです。
1568年、光秀は足利義昭、織田信長の会見を実現させ時代は大きく変わっていくことになりました。
翌年の1569年、足利義昭は突如三好三人衆という畿内の勢力に攻撃されます。
これを明智光秀は必死に守り抜き、信長、足利義昭から更に信頼を獲得してことになります。
既に足利義昭と上洛と果たした信長は、足利義昭の名のもとに不審な動きがある朝倉義景に上洛を命じます。
しかし朝倉義景はこの要請を無視。
このことによって大義名分を得た信長は朝倉討伐に出向くことになります。
程なくして朝倉義景を攻撃していた信長に寝耳に水の情報が入ります。
婚姻関係で同盟中の浅井長政が反旗を翻したんです。
全く予想していなかったこの事態に信長は危機感を募らせ、一番危険な戦が行われる殿(しんがり)というところに明智光秀、豊臣秀吉などを配置して、信長は一人戦場から逃げてしまいます。
この危険な戦場を明智光秀は見事乗り切り、信長からも絶大な信頼を獲得することになりました。
1571年には比叡山延暦寺が朝倉義景に味方したことから比叡山延暦寺の焼き討ちを命じられます。
誰も行いたくないであろう泥水をすするようなこの仕事を光秀はしっかり果たし、信長から近江国滋賀群(今の滋賀県の一部)に所領を与えられ事実上信長の家臣となったのです。
1573年、足利義昭は信長の専横に耐え切れず遂に信長討伐に乗り出します。
しかし頼みの綱の武田信玄が死んだことによって足利義昭は逆に窮地に立たされ、信長によって京から追放されてしまいます。
この時をもって明智光秀は完全に足利義昭と決別し、正式に信長の家臣になりまました。
その後も数々の合戦に参加をし、1575年には丹波国(今の京都中部から兵庫の一部)の攻略を任されます。
信長に付き従って以来、ひたすら戦に出続けていた光秀はある時過労で倒れてしまいます。
この過労は長く続き、看病をしていた妻の煕子が、逆に過労になってしまったためか病死してしまいます。
妻を失った光秀は失意の中、丹波国攻略をしていくことになります。
そして1579年に丹波国を平定し、翌年には丹波国をそのまま光秀は与えられ、名実ともに織田家家臣団の中でトップに立つことになったんです。
丹波国を褒美として頂いた光秀は多いに喜びます。
丹波国の政務を行なって数年後の1581年、光秀は信長について、
「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」
と感謝の意を示している。この段階では信長への謀反の兆しは見えません。
しかし、翌年1582年の武田討伐で武田家を滅亡させた宴会で、信長にこれまでを労う言葉をかけた所、逆に叱責されてしまいます。家臣たちの前で殴られたとも言われています。
決定的であったのが、これまで国を富ませ育てきた丹波国から出羽、出雲へ移れという命令でした。
出羽、出雲というのはその時毛利家の領土であったため、事実上の所領没取に等しかったのです。
この命令を受けた時織田家は毛利家と戦をしていましたが、光秀は同僚豊臣秀吉の部下として出陣するようにと言われたようです。
これまで信長の手足として働いていましたが、家臣たちをないがしろにする彼のやり方についていけなくなっていたのかもしれません。
そして運命の1582年6月2日を迎える事になります。
1582年6月2日早朝
豊臣秀吉の毛利攻めに加勢するため、明智光秀は出陣します。
しかし、出陣後行きついた先は京都本能寺
信長の配下の森蘭丸に軍勢の軍容を見せてほしいと言われた嘘をつき、軍勢を本能寺に仕向けたんです。
光秀配下の軍勢は本能寺に信長がいることもわからないまま、攻撃を行います。
光秀の本意を知っていたのは非常に信頼されている数名の部下だけだったと言われています。
信長は油断があったのか安心していたのか、100名ほどの近習のみしか本能寺にはいませんでした。
明智光秀の軍勢は13000人ほどどいわれているので、多勢に無勢で信長は自刃して果ててしまいます。
これが世にいう本能寺の変というものです。
信長を討った光秀でしたが、信長の悲報をいち早く知った豊臣秀吉に戦で敗れ、最後は落ち武者狩りの農民に殺されたと言われています。
いかがでしたか
明智光秀についてはもう少し細かく解説をしたかったのですがマニアックな感じになるので今回はやめました。(笑)
明智光秀は一度どん底を知り、這い上がって人生を成功させた言わば勝ち組の人間です。
しかし、その全てを捨てても成し遂げたい思いがあり、信長を討ったんだと私は思っています。
バランス感覚の秀でたここまで優秀な武将はあまりいません。
光秀なら信長を討った後どうなるか、ある程度は予測できたはずなんです。
それでも何故信長を討ったのか。
ここが歴史の面白いところでもあり妄想を駆り立てるところだと思いませんか?
今回は明智光秀の一生についてざっと解説をしてみました。少しは明智光秀という男についてわかっていただけたかと思います。
今後も大河ドラマ関係の人物を含め、様々な武将について解説していこうと思っています。
ではでは~